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倒れた高架とともに落ちたトラックと、散乱する積み荷=1995年1月17日、神戸市灘区岩屋中町 崩落した阪神電鉄の高架と、傾いた電車。すぐ隣の民家からは炎が上がっていた=17日、神戸市東灘区御影石町 阪神御影駅近くの路地。倒壊家屋のそばを歩き回る犬がいた。飼い主は無事だったろうか?=17日午前、神戸市東灘区御影本町 まだ空が白む前、毛布をまとい逃げ出す住民ら。「非日常」が日常となる日々の始まりだった=17日早朝、神戸市東灘区 住宅街の火災で、学校のプールの水をバケツリレーする人々=17日、神戸市東灘区御影石町 街角の公衆電話には行列ができた=17日午前、神戸市東灘区御影中町1
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倒れた高架とともに落ちたトラックと、散乱する積み荷=1995年1月17日、神戸市灘区岩屋中町

崩落した阪神電鉄の高架と、傾いた電車。すぐ隣の民家からは炎が上がっていた=17日、神戸市東灘区御影石町

阪神御影駅近くの路地。倒壊家屋のそばを歩き回る犬がいた。飼い主は無事だったろうか?=17日午前、神戸市東灘区御影本町

まだ空が白む前、毛布をまとい逃げ出す住民ら。「非日常」が日常となる日々の始まりだった=17日早朝、神戸市東灘区

住宅街の火災で、学校のプールの水をバケツリレーする人々=17日、神戸市東灘区御影石町

街角の公衆電話には行列ができた=17日午前、神戸市東灘区御影中町1

  • 倒れた高架とともに落ちたトラックと、散乱する積み荷=1995年1月17日、神戸市灘区岩屋中町
  • 崩落した阪神電鉄の高架と、傾いた電車。すぐ隣の民家からは炎が上がっていた=17日、神戸市東灘区御影石町
  • 阪神御影駅近くの路地。倒壊家屋のそばを歩き回る犬がいた。飼い主は無事だったろうか?=17日午前、神戸市東灘区御影本町
  • まだ空が白む前、毛布をまとい逃げ出す住民ら。「非日常」が日常となる日々の始まりだった=17日早朝、神戸市東灘区
  • 住宅街の火災で、学校のプールの水をバケツリレーする人々=17日、神戸市東灘区御影石町
  • 街角の公衆電話には行列ができた=17日午前、神戸市東灘区御影中町1

倒れた高架とともに落ちたトラックと、散乱する積み荷=1995年1月17日、神戸市灘区岩屋中町 崩落した阪神電鉄の高架と、傾いた電車。すぐ隣の民家からは炎が上がっていた=17日、神戸市東灘区御影石町 阪神御影駅近くの路地。倒壊家屋のそばを歩き回る犬がいた。飼い主は無事だったろうか?=17日午前、神戸市東灘区御影本町 まだ空が白む前、毛布をまとい逃げ出す住民ら。「非日常」が日常となる日々の始まりだった=17日早朝、神戸市東灘区 住宅街の火災で、学校のプールの水をバケツリレーする人々=17日、神戸市東灘区御影石町 街角の公衆電話には行列ができた=17日午前、神戸市東灘区御影中町1

倒れた高架とともに落ちたトラックと、散乱する積み荷=1995年1月17日、神戸市灘区岩屋中町

崩落した阪神電鉄の高架と、傾いた電車。すぐ隣の民家からは炎が上がっていた=17日、神戸市東灘区御影石町

阪神御影駅近くの路地。倒壊家屋のそばを歩き回る犬がいた。飼い主は無事だったろうか?=17日午前、神戸市東灘区御影本町

まだ空が白む前、毛布をまとい逃げ出す住民ら。「非日常」が日常となる日々の始まりだった=17日早朝、神戸市東灘区

住宅街の火災で、学校のプールの水をバケツリレーする人々=17日、神戸市東灘区御影石町

街角の公衆電話には行列ができた=17日午前、神戸市東灘区御影中町1

  • 倒れた高架とともに落ちたトラックと、散乱する積み荷=1995年1月17日、神戸市灘区岩屋中町
  • 崩落した阪神電鉄の高架と、傾いた電車。すぐ隣の民家からは炎が上がっていた=17日、神戸市東灘区御影石町
  • 阪神御影駅近くの路地。倒壊家屋のそばを歩き回る犬がいた。飼い主は無事だったろうか?=17日午前、神戸市東灘区御影本町
  • まだ空が白む前、毛布をまとい逃げ出す住民ら。「非日常」が日常となる日々の始まりだった=17日早朝、神戸市東灘区
  • 住宅街の火災で、学校のプールの水をバケツリレーする人々=17日、神戸市東灘区御影石町
  • 街角の公衆電話には行列ができた=17日午前、神戸市東灘区御影中町1

 25年前の1・17。突き上げるような激しい揺れで目覚めた。地震だとすぐには理解できず、次の大きな揺れに「な、何じゃこりゃ」と思わず叫んでいた。神戸市東灘区の阪神御影駅近く、古い木造2階建ての借家の壁や柱が、不気味な音を立ててきしんだ。揺れが収まってから外に出ると、路地を挟んだ隣の家は、1階がつぶれているようだった。

 暗闇の中、同駅周辺へ。倒壊した建物がいくつもあった。当時は入社1年目の審査部員。記事を書く外勤記者ではなく、見出しや原稿をチェックする校正・校閲担当だった。取材経験はゼロ。何をすべきか分からなかったが、写真だけは撮らなければと、部屋に戻りカメラを捜した。

       ◆

 壊れた家のそばでぼうぜんと立つ人々。ためらいつつ、フラッシュをたいた。夜が明けると、街の惨状があらわになった。あちこちから立ち上る煙。住民らが学校のプールから水をくみ、必死のバケツリレー。阪神電鉄の高架は崩れていた。信じがたい光景に、「戦争みたいや」と嘆くお年寄りたちも。現実感がないままシャッターを切り続けた。ただ、人々を正面から写す勇気がなく、後ろ姿ばかり撮っていた気がする。

 自宅そばでは、生き埋めになった人を救助するために近所の人が集まっていた。当時同居していた友人と手伝った。その後、「会社に行った方がええんちゃうの?」という友人の言葉に押され、バイクで三宮駅前の本社を目指した。見慣れた風景は一変していたが、戦災にも耐えた御影公会堂の姿はあった。バイクを止めては撮影することを繰り返しつつ西へ。その時は、本社に大きな被害が出ているとは思いもしなかった。

       ◆

 校閲作業もなくなり、命じられたのは「自宅待機」。その夜は避難所で、余震におびえて過ごした。御影の自宅は全壊。灘区鶴甲の社員寮に避難した。撮った写真は結局、紙面には載らなかった。約1週間後に社会部へ配置されるまで、報道機関に属しながら何もできなかった。犠牲者の顔写真を集め、その人生を聞く連載「忘れない」で、遺族らの深い悲しみに触れたのは後のことだ。

 仕事のない「待機」の日々。家から使える家財を運び出す作業などに追われた。自分もまた被災者だった。

2020/1/22
 

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