25年前の1・17。突き上げるような激しい揺れで目覚めた。地震だとすぐには理解できず、次の大きな揺れに「な、何じゃこりゃ」と思わず叫んでいた。神戸市東灘区の阪神御影駅近く、古い木造2階建ての借家の壁や柱が、不気味な音を立ててきしんだ。揺れが収まってから外に出ると、路地を挟んだ隣の家は、1階がつぶれているようだった。
暗闇の中、同駅周辺へ。倒壊した建物がいくつもあった。当時は入社1年目の審査部員。記事を書く外勤記者ではなく、見出しや原稿をチェックする校正・校閲担当だった。取材経験はゼロ。何をすべきか分からなかったが、写真だけは撮らなければと、部屋に戻りカメラを捜した。
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壊れた家のそばでぼうぜんと立つ人々。ためらいつつ、フラッシュをたいた。夜が明けると、街の惨状があらわになった。あちこちから立ち上る煙。住民らが学校のプールから水をくみ、必死のバケツリレー。阪神電鉄の高架は崩れていた。信じがたい光景に、「戦争みたいや」と嘆くお年寄りたちも。現実感がないままシャッターを切り続けた。ただ、人々を正面から写す勇気がなく、後ろ姿ばかり撮っていた気がする。
自宅そばでは、生き埋めになった人を救助するために近所の人が集まっていた。当時同居していた友人と手伝った。その後、「会社に行った方がええんちゃうの?」という友人の言葉に押され、バイクで三宮駅前の本社を目指した。見慣れた風景は一変していたが、戦災にも耐えた御影公会堂の姿はあった。バイクを止めては撮影することを繰り返しつつ西へ。その時は、本社に大きな被害が出ているとは思いもしなかった。
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校閲作業もなくなり、命じられたのは「自宅待機」。その夜は避難所で、余震におびえて過ごした。御影の自宅は全壊。灘区鶴甲の社員寮に避難した。撮った写真は結局、紙面には載らなかった。約1週間後に社会部へ配置されるまで、報道機関に属しながら何もできなかった。犠牲者の顔写真を集め、その人生を聞く連載「忘れない」で、遺族らの深い悲しみに触れたのは後のことだ。
仕事のない「待機」の日々。家から使える家財を運び出す作業などに追われた。自分もまた被災者だった。
2020/1/22【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
【14】地滑り現場は1日過ぎても煙が噴き出していた 姫路支社記者(当時)菅野繁整理部第二部長2020/2/12
【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク2020/2/5
【12】「今起きていることをしっかり記録して」 社会部記者(当時)陳友昱運動部長2020/1/29
【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8