





多くの近隣住民が避難した安井小学校の体育館。カメラに気付いた何人かが視線を向けた=1995年1月17日、西宮市安井町
友人が残したアルバムを手にする女性=19日、西宮市仁川町6
亡くなった友人を悼み、土砂崩れの現場へ花を投げ入れる女性ら。両脇から放送局のマイクが差し出されている=19日、西宮市仁川町6
ビル倒壊現場前で、警察官らに情報を求める人たち。顔写真の付いた書類を差し出す女性も=19日、西宮市甲子園口北町
家の後片付けで疲れ切ったか、並べられた瓦の上に座り顔を伏せる少年=21日、西宮市津門西口町
避難した公園で暖を取る人たち。被災直後は気持ちが高ぶっていたためか、会話の雰囲気は暗くなかった=20日、西宮市津田町
地震が起きた17日、勤務先の柏原町(現兵庫県丹波市)にいた。その日のうちに西宮市の阪神総局へ入り、以後約4カ月にわたり、主に写真担当として阪神間の被災地を駆け巡った。
◆
あの日の夜、西宮市内の小学校に向かった。冷えた体育館では避難してきた近隣の住民が、すし詰めの状態で座り込み、横たわっていた。カメラを構えると何人かが気付き、視線を向けた。「こいつは何をしているんだ」「こんなときに写真を撮るなんて」。そう思われていることは無言でも分かる。それでも撮った。何も感じていないふりをして。それが仕事、と自分に言い聞かせて。
同市のJR甲子園口駅前のビル倒壊現場では、21日夜になっても不明者の救出作業が続いていた。立ち入り禁止を示すロープの前にいる大勢の人は、ビル住民の関係者だろう。その脇で脚立の上に立ち、望遠レンズでビルの奥をのぞいていたときだった。脚立を蹴られたのか、足に強い衝撃が伝わり、転げ落ちそうになった。振り返ると若い男性が「何やってんねん。撮んなや!」と怒鳴った。「俺の友達がおるんや」
少し離れて現場を見ているうち、毛布に包まれた担架を救助隊員らが運び出した。フラッシュが光り、テレビカメラのライトがともると、先ほどの男性が再び叫んだ。「撮んな!」。少し涙声だった。
大規模な土砂崩れに多くの民家が巻き込まれた、西宮市仁川百合野町周辺にも19日から連日通った。当時撮った写真に、土砂で埋まった河原へ女性2人が花束を投げ入れる場面がある。別の写真では、2人のうちの1人が道端で泣き崩れている。
次の場面で女性が、被災した家の住民が残したアルバムやノートを手にしている。女性は犠牲者の友人だった。話しながら撮った。女性が撮らせてくれたのだろう。胸がつぶれるほど、つらいに違いないのに。
◆
被災者にカメラを向ける行為は、誰もしたくないし、されたくない。それでも災害が起き、新たな被災者が出るたびにシャッターを切る。現場での非難も受け入れて。そうして映像の記録を重ね惨禍の記憶を社会で共有することが、一人でも被災者の少ない未来へつながるはず。被災地を撮る者は、そう信じるしかない。
2020/3/18【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
【14】地滑り現場は1日過ぎても煙が噴き出していた 姫路支社記者(当時)菅野繁整理部第二部長2020/2/12
【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク2020/2/5
【12】「今起きていることをしっかり記録して」 社会部記者(当時)陳友昱運動部長2020/1/29
【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8