





最初に駆け込んだ公園には大勢の人たちが避難していた。小さな子どもをしっかりと抱き寄せ、かがみ込んでいる男性がいた=1995年1月17日午前6時ごろ、神戸市兵庫区佐比江町、佐比江公園
飲食店が多数入居するビルに倒れ込んだ電柱。男性がたたずんでいた=17日午前、神戸市中央区北長狭通1
避難所になった体育館でオセロ風ゲームに興じる子どもたち。疲れ果てた人たちで殺伐とする中、笑顔に救いを求めて撮ったのかもしれない=17日夜、神戸市兵庫区荒田町4、荒田小学校
生田神社の駐車場に逃げ込み寒さをしのぐ人たち。後ろには倒壊した拝殿が見える=17日午前、神戸市中央区下山手通1
倒壊し外壁が崩れ落ちた建物。内部には、前夜までの平穏な暮らしが残されていた=17日午後、神戸市東灘区魚崎北町2
夜になっても燃え続ける火災現場。ホースを担いで懸命に消火活動する消防隊員がシルエットで浮かび上がった=17日夜、神戸市長田区細田町4
1月17日未明、神戸市長田区の国道2号。火災取材から三宮の本社に戻るタクシー内で突然、とてつもない衝撃を受けた。追突事故? 激しく揺れ続ける車中から、道路の周辺が停電で真っ暗になるのが見えた。「地震」の2文字が頭に浮かんだ。
揺れが収まった後、兵庫区内で歩道が割れて盛り上がっている現場に出くわした。普段の感覚で「地震らしい場面だ」と思い撮影を始めたが、タクシーのヘッドライトで浮かび上がった奥の光景に言葉を失った。4階建てのビルが傾き、文化住宅が倒壊していた。いや応なしに放り込まれた現実を受け止められず、何をどうすればいいか分からなかった。
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訪れた公園には、家から逃げ出した人が集まっていた。皆、着の身着のまま。冷え込む時間帯で、毛布にくるまり肩を寄せ合う姿もあった。誰かのラジオから聞こえた「神戸は震度6。震源地は淡路島」という言葉で、現実が少しのみ込めた。夜明け前だったこともあり、「明るくなるまでここで取材をしよう」と一緒にいた同僚記者と決めた。暗い中で写真を撮り続けたが、使命感というよりも、こみ上げる恐怖心をごまかす方便だったように思う。
余震で悲鳴が上がる。ガス臭が漂う。火のついたたばこをいさめる声も聞こえた。本社にいる社会部デスクとの連絡は、タクシーにあった携帯電話で一度つながっただけで、以後つながることはなかった。空が白み始めたころ、手持ちのカラーフィルム3、4本が底をついた。
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会社に戻り、フィルムを手に再び街へ出た。飲食で親しんだ三宮は、倒れたビルが大通りをふさぎ、折れた電柱から電線が垂れ下がっていた。「生き埋め多数」と聞いて駆けつけた東灘区の住宅街は、一帯が倒壊していたため現場が分からなかった。夜、長田区の火災現場では、炎と向き合う消防隊員を見た。街を焼き尽くすような勢いは止まらず、四方から炎が迫る。路上で撮影していると靴底が熱くなり、消火活動を見届けることはできなかった。
今も各地で、大きな災害が相次ぐ。見出しや記事で「被災者」という大きな主語を目にしたときに、一人一人に思いを巡らせる。あの震災で出会った人々の顔が重なる。
2020/3/25【20】出会った一人一人の顔 今も忘れない 写真部記者(当時)藤家武 映像写真部次長2020/3/25
【19】それでも撮った。感じていないふりをして 丹波総局員(当時)田中靖浩淡路総局長2020/3/18
【18】国生み神話の神社 大鳥居は無残に 津名支局長(当時)今中秀穂神戸新聞総合印刷・地域編集部次長2020/3/11
【17】3日間の暗闇「神様、なぜ」と女性は叫んだ 香住支局長(当時)中部剛報道部デスク2020/3/4
【16】取材か救助か 迷う時間はなかった 社会部記者(当時)浜田豊彦整理部デスク2020/2/26
【15】病院は薄暗く、不思議なほど静かだった 社会部記者(当時)網麻子文化部デスク2020/2/19
【14】地滑り現場は1日過ぎても煙が噴き出していた 姫路支社記者(当時)菅野繁整理部第二部長2020/2/12
【13】駆け付けた海兵隊員に被災者は笑顔を見せた 姫路支社記者(当時)藤原学報道部デスク2020/2/5
【12】「今起きていることをしっかり記録して」 社会部記者(当時)陳友昱運動部長2020/1/29
【11】取材経験ゼロ 写真だけはと街に出た 審査部記者(当時)堀井正純文化部記者2020/1/22
【10】学生の遺体に カメラを向けられなかった 文化部記者(当時)長沼隆之報道部長2020/1/15
【9】何のために書くのか 被災者から教わった 阪神総局記者・宝塚市担当(当時)小山優報道部デスク 2020/1/8