魚の棚商店街のイタリアン「レストランバーオオタニ」(兵庫県明石市本町1)の店内には、深さ約90センチの半地下に風変わりな客席が設けられている。防空壕(ごう)跡と伝わる。関係者を訪ねた。(松本寿美子)

 2022年5月、オーナー大谷和之さん(50)、仁美さん(50)夫婦が移転してきた際、所有する不動産業者から防空壕跡と聞いた。仁美さんは「お客さんの中には『落ち着く』と喜ぶ人もいれば、年配の方は『暗いから嫌や』と言う人も。戦争の記憶が脳裏をよぎるのかな」と話す。

 隣で玉子焼き店「よこ井」を営む横井孝子さん(82)は「工事中に見たら風呂でもプールでもない空間があり、近所の人と『防空壕跡やわ』となった」と話す。「詳しく知りたい? 昔ここにいた小川さんとこに聞いたらええわ」と教えてくれた。

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 そこは以前、女性の装飾品などを売る小間物店「美乃弥」だった。経営者だった小川三彌(さんや)さんの孫、小川博之さん(58)=同市=は「私もずっと防空壕跡と思ってきましたが、実はよく分からないんです」と話す。

 博之さんが父から聞いた話によると、美乃弥は本来向かいの南側に店舗があり、2度焼け出された。1度目は1945年7月の空襲、2度目は49年に一帯で起きた大火。火事の後、レストランバーオオタニになった場所に移転したという。

 大火の数日後、三彌さんらが防空壕だった地下室を開けると商品が焼け残っていたといい、博之さんは現在も倉庫に保管している、熱ですすけたブリキ缶や女性のかんざし、指輪、小物ケースなどを見せながら「祖父は空襲と大火に遭った経験から、地下室の重要性を痛感し、新築する際にも造ったのでしょう。もちろん当時はどの店にも防空壕があったそうなので、大火前までそこにあった塩干店の防空壕跡を活用した可能性もありますが、今となっては分かりません。祖父は引退後に移った西明石の自宅にも地下室を造っていました」と振り返る。

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 今月初め、レストランバーオオタニの半地下の客席では、男女3人がランチを楽しんでいた。そのうちの一人、同市出身の医師、高木一典さん(51)=大阪市=は「78年前、こういう狭い半地下で息を潜め、爆撃におびえていた人たちがいたかと思うと、平和のありがたさを感じずにはいられない」と話す。

 市史によると、市が米軍の空襲を初めて受けたのは1945年1月。6、7月には5回受け、1496人が亡くなり、64人が行方不明になった。

 高木さんは明石の知り合いに「客席が防空壕跡らしい」と聞き、職場の同僚2人と訪れた。「当時はエアコンもなく、めちゃくちゃ暑かったやろなあ」と思いをはせた。

 レストランバーオオタニは午前11時半~午後2時、午後5~10時。毎週月曜定休。TEL078・911・5181