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船越隆文さんとの思い出を、遺影の前で語る森信雄七段=宝塚市内
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船越隆文さんとの思い出を、遺影の前で語る森信雄七段=宝塚市内

 「歳月の早さに驚くが、私の意識は過去ではなく、今も悲しみの重さを背負いながら-」。将棋の森信雄七段(70)=兵庫県宝塚市=は昨年末、自身のツイッターで思いを吐露した。阪神・淡路大震災で、自宅近くのアパートに住んでいた弟子の船越隆文さん(当時17歳)を亡くしてから17日で28年。「自分の使命は、震災や船越君の記憶を少しでも次の世代へつないでいくこと」と静かに語る。

 森七段は愛媛県出身。1994年、妻の恵美子さん(64)と結婚したのを機に、大阪市から宝塚市のマンションへ転居した。同じころ、棋士養成機関の奨励会3級だった船越さんも、実家がある福岡県の高校を中退し、森七段の自宅に近い宝塚市内のアパートへ単身で移った。船越さんを関西将棋会館(大阪市福島区)の近くに住ませなかったのは「仲間と遊んでしまわないように」という森七段の配慮からだった。

 船越さんを「性格も将棋も堅実で重厚。亀の歩みで着実に成績を上げていくタイプだった」と振り返る。「天才でない代わりに普通の子より努力できるタイプだったから、師匠としての力が試されると思っていた。船越君が一人前の棋士になれば、僕も師匠としてまあまあ合格だと思っていました」

 森七段の決意が実を結ぶことはなかった。翌年1月17日、船越さんは倒壊したアパートの下敷きになり亡くなってしまったのだ。

   ■   □

 森七段は小説や映画になった「聖の青春」で知られる故村山聖九段をはじめ、棋士13人、女流棋士5人の師匠だ。棋士になった弟子の数は現行制度下では最多。弟子の面倒見の良さで知られ、棋士を引退した今も、奨励会員の弟子は10人を超える。

 船越さんを亡くした直後は「師匠として将棋に対しては責任が取れるが、命までは背負えない」と弟子を取るのをやめていた。しかし、船越さんの母、明美さんから「息子と同世代の子が強くなるのを見るのが楽しみ」と言われ、再び弟子を育てている。

 「自分自身、船越君が亡くなったことで、弟子に対する身の入れ方が変わったし、宝塚に住み続け、船越君のそばを一生離れない覚悟も持った」と森七段。しかし震災を知らない若い弟子が増え、年々「震災で起きたことを分かってもらうのは難しいと感じるようになってきた」という。

 「あすの朝、命が絶たれるかもしれないんだよって、真剣に言っても伝わらない。彼らは健康で元気で、自分たちが死ぬなんてことはこれっぽっちも頭にない」と森七段はもどかしげに語る。

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 そんな中、森七段は1月17日を「一門の日」と位置づけ、大切にしてきた。新年会を兼ねて弟子たちを呼び、アパート跡地や、宝塚市のゆずり葉緑地にある慰霊碑で祈りをささげてきた。

 「自分の体験のたとえ1、2割でも次世代へつないでいくこと。僕がいなくなっても、1月17日に弟子たちが集まることが恒例になっていれば、そのこと自体に大きな意味があるはず」

 新型コロナの感染拡大で、2021年からは妻の恵美子さんと2人だけで思いを寄せてきた。

 今日はその「一門の日」。森七段と恵美子さんは、今年も慰霊碑を訪れるつもりだ。

【特集ページ】阪神・淡路大震災

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