この2年間、新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)されている。人類の歴史ははしかやペストなど感染症との闘いの連続だが、1980年に史上初めて、ある伝染病が「根絶」された。牛痘種痘(ぎゅうとうしゅとう)法-つまり予防ワクチンが効果を発揮した天然痘だ。英国で開発された種痘は幕末の日本に伝わり、兵庫県の播磨でも「種痘医」が普及に努めたという。当時を知ろうと、研究者の古西義麿さん(86)を訪ねた。(上杉順子)
■3千年前から世界中で流行
同県丹波市出身の古西さんは緒方洪庵記念財団・除痘館(じょとうかん)記念資料室(大阪市)の専門委員。蘭方医の洪庵らが開いた大坂の接種拠点「除痘館」、そこから「痘苗(とうびょう)」(ワクチン)を分けられた「分苗所」などを長年調査している。昨年秋には「姫路除痘館と播磨国の種痘医たち」をテーマに、姫路市で講演した。
空気感染する天然痘は、少なくとも3千年前から世界中で流行を繰り返してきた。感染すると約3割が亡くなり、18世紀末の欧州では毎年20万~60万人が死亡したという。日本でも古くは奈良時代に流行の記録があり、江戸時代には毎年のようにはやった。
牛痘種痘法は18世紀末に英国の医学者ジェンナーが開発した。牛の病気・牛痘に乳搾りの人らがまれに感染しても軽症で済み、その後は天然痘にかからないことに着目。わざと牛痘に罹患(りかん)させて天然痘の感染を阻止するという安全な予防方法を編み出した。
人の腕に植える牛痘のうみ「痘苗」は、感染した人から採取し、次の人にリレーしていく。日本では江戸後期の1849(嘉永2)年夏、長崎に輸入されたかさぶたを使った種痘が成功し、次々に植えつがれた。同年11月には、大坂で蘭学塾「適塾」を開いていた洪庵のもとにも届いた。
洪庵は種痘所「除痘館」を開き、痘苗を絶やさないように管理。医師に種痘の講習会を実施して種痘医の免許状も出すなど、西日本の拠点となった。記念資料室には、市川流域で活動した種痘医・中川脩節の免許状、種痘施設の一覧など、播磨関連の資料も残る。
播磨での種痘は姫路が最も早く、大坂に除痘館ができた数カ月後に分苗所「姫路除痘館」が、姫路藩臣の橘三折(さんせつ)によって創設された。除痘館は姫路城下の本町を中心に、飾磨津などにも置かれたとみられる。古西さんは「播磨は豊かでお金持ちが多く、医師の結びつきも強かった」と語る。
播磨での活動は活発で、62(文久2)年に大坂除痘館で痘苗が絶えた際は姫路から届けている。同年の触れ書き(藩などが一般人に公布する文書)には、姫路除痘館の受診者が天然痘にかかった事例はなく、今後も種痘事業は三折に任せる、姫路藩領では除痘館以外での種痘は禁止-などと記されている。
現代でもワクチン接種に不安を感じる人がいるように、幕末には「種痘を受けると牛になる」といううわさが出回った。姫路藩内では接種場となる町会所の使用拒否が発生したという。
種痘の効果や安全性は次第に認められ、種痘医の活動は明治政府にも引き継がれた。天然痘の発生は次第に少なくなり、1980年に世界保健機関(WHO)が伝染病では初めて「根絶宣言」を出した。40年が過ぎた今も、宣言を出したのは天然痘のみ。古西さんは「幕末の医師は、感染症は点ではなく面で抑えなければいけないと海外の文献で学び、最初から実行していた」と話し、先人の知恵に学ぶ必要性を説いている。
■除痘館を運営した二人の墓や生存記録発見
播磨の種痘医について古西さんと一緒に調査を続ける若手郷土史研究者がいる。姫路藩酒井家文化歴史研究会「三星会」の事務局を務める津山邦寧(くにやす)さん(31)=兵庫県姫路市=だ。
津山さんたちが注目する種痘医が、アイヌ民族への種痘に尽力し、その後は橘三折らと姫路除痘館を運営した井上元長。井上は大阪除痘館が痘苗を絶やした際、姫路から届けた人物でもある。
名前以外の詳細は長年不明だったが、2012年、姫路藩ゆかりの墓が多い景福寺山(姫路市)で墓碑調査をした津山さんが、井上家の墓を発見。1886(明治19)年時点で元長が存命だったと判断できた。同山には三折の墓もある。
井上家の墓発見を契機に、古西さんは津山さんらと景福寺山史跡保存会を結成。2人は播磨の種痘医についても共同研究を行うようになり、共著も出した。
津山さんは昨年、別の調査で91(同24)年度の姫路全市の税金の記録を閲覧中、井上の名を偶然発見した。これにより、さらに5年の存命が裏付けられた。津山さんは「井上も橘も、その人生はほとんど分かっていない。少しずつ解明できれば」と話している。
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