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創業当時のフタギ洋品店(イオン提供)
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創業当時のフタギ洋品店(イオン提供)
ジャスコ姫路店
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ジャスコ姫路店
二木一一さん(イオン提供)
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二木一一さん(イオン提供)
二木英徳さん
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二木英徳さん
フタギと岡田屋の合併に向けた合意をスクープした神戸新聞記事のコピー
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フタギと岡田屋の合併に向けた合意をスクープした神戸新聞記事のコピー

 流通大手イオンの前身、ジャスコの元社長、二木(ふたぎ)英徳さん=兵庫県姫路市出身=が8月10日、85歳で亡くなった。イオン取締役相談役や日本体操協会の会長などを務めた財界人だが、地元姫路では「二木」の名から、ご当地スーパー「フタギ」を思い起こす人も多いはず。英徳さんの父一一(かずいち)さんが戦前、姫路駅前に開いた小さな洋品店を原点に、フタギはジャスコからイオンへと、日本を代表する企業の礎となった。二木さん親子や当時の店を知る人たちを訪ねた。(段 貴則)

 「英徳さんは勉強ができて、中学では確か生徒会長もやったんじゃなかったかな。東大を出てフタギに入社した頃の英徳さんは、雲の上の存在やった」。姫路駅前のみゆき通り商店街に「多田呉服店」を構える多田恵一さん(85)は、英徳さんの1年後輩にあたる。

 学生時代、英徳さんと接点はなかったが、大人になると、一一さんから商いの薫陶を受けたという。

 商店街の各店には、多田さんを含め、将来2代目として後継ぎとなる若者たちがいた。一一さんは多田さんら後継ぎたちを集めて酒を飲みながら、「時間を無駄にするな」と口酸っぱく説いた。多田さんは「とにかく時間の使い方に厳しい人だった。買い物をせず、冷やかしだけのお客にも『その時間を使って、いい感じの店だと思ってもらえるようにしろ』とね」と懐かしむ。

     ◇

 フタギの前身は、一一さんが1937年に創業したフタギ洋品店。空襲で焼失し、戦後、フタギ株式会社として再出発した。

 書籍『二木一一訓話 語録』からは、きまじめな商売ぶりがうかがえる。衣料品が配給切符制だった戦中戦後、「商人はサービスを忘れ、えらそうに振る舞い切符なしで恩着せがましく闇ルートで商品を流す」中で、一一さん夫妻は、切符引き替えによる「正しい商売」に励んだ。切符制が終わる頃、県内の切符取扱高は神戸大丸、神戸そごう、神戸三越に次いで、店舗面積20平方メートルにも満たないフタギが4位だったという。

 店は下着など衣料品から食料品までそろえ、スーパー化していった。60年には英徳さんが入社し、スーパーの本場・米国への視察を重ねた。一一さんも米国で店の広い駐車場いっぱいの車を見て、日本でも同じように駐車場なしでは商売が成り立たなくなると確信したという。

 創業30年となる67年冬、兵庫県南部に22店舗を有したフタギはアクセルを全開にした。68年春までの半年間で、30年かけて築いた総売り場面積を2倍に広げる出店計画を打ち出した。さらにこの年、岡田屋(三重県)とシロ(大阪府)との3社で、合併を前提に業務提携。翌69年、新会社ジャスコを立ち上げ、最大の功労者・一一さんが会長に就いた。

     ◇

 フタギの急拡大は、地元姫路の商業地図を大きく塗り替えた。

 68年、姫路城の北に野里店(91年に閉店)がオープンした。当時から同店の向かいで営業を続けてきたのが、食料品店「ほそおか食品」(姫路市鍵町)だ。

 3代目店主細岡直弘さん(54)は「近くの商店街を含め、野里店の出店に反対したと聞いている」と話す。ただ、開店後の相乗効果は大きく、駐車場を備えた野里店は地域商業の集客の核となった。野里店の閉店話が持ち上がると「開店に反対した人たちが、今度は閉店に反対したほど」(細岡さん)と話す。

 また、71年開業のジャスコ姫路店(後の姫路フォーラス)など駅周辺のにぎわいの拠点となった。

 姫路の老舗百貨店だったヤマトヤシキの創業家で、元会長の米田徳夫さん(78)は「もともと父と一一さんは同業で競争相手だったが、仲が良かった」と語る。

 ヤマトヤシキの前身は、1906年創業の洋品雑貨店「米田まけん堂」。それぞれ百貨店と総合スーパーへと業態を進化させた。

 米田さんは「ジャスコはフタギ時代よりも人材育成に力を入れるようになった。その後、他の量販店の経営が厳しくなっても、イオンが勝ち残ったのは人材育成があったからこそ」とみている。

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