母みつゑさんがたんすにしまっていた作文を肌身離さず持ち歩く甲山安子さん=多可町八千代区大和
母みつゑさんがたんすにしまっていた作文を肌身離さず持ち歩く甲山安子さん=多可町八千代区大和

 「私がどんなにお父さんの戦死を悲しんでもお父さんは帰って来ません」。8月、神戸新聞北播総局に作文の写しが届いた。差出人は加東市新町の会社役員、甲山(こうやま)(旧姓坂本)安子さん(85)。1950年代、小学5年の頃に戦没者追悼式の弁論大会で発表したものだ。太平洋戦争で父を亡くし、さびしさを抱えながら、母や弟妹らと支え合った幼少期。戦後80年を迎えた今、作文をお守りとして肌身離さず大切に持ち歩いている。(井筒裕美)

 唯一覚えている父の姿は5歳のころ、出征する日の背中だった。現加東市上久米の自宅前で、防空頭巾をかぶった甲山さんの小さな頭を、父の高一さんは右手でなで、背を向けて歩き出した。

 亡き母のみつゑさんが大切にしていた父の写真の裏には、誕生日とともに命日が記されていた。「昭和20年(1945年)7月5日 タラカン島(インドネシア)海軍水兵長 36才」

 家に帰っても父はいない。子どものころ、近所の男の子からは「ててなし子(父無し子)」と呼ばれた。そう言われる意味が分からない。ばかにされないように勉強に励んだ。田んぼがあり食べるものには困らなかったが、金はなく、同級生のようにお菓子は買えない。ガムの代わりに松の木の実をかんだ。