団地の部屋から望む水面はラムネ色に輝いている。阪神・淡路大震災で妻を亡くした中島喜一さん(77)は、長年過ごした神戸を離れ、2021年から淡路島の海辺で暮らす。
「僕はつぶれた家にいなかったし、家内の最期も見てないんです。娘に背中を見せることができなかったのね」。残された娘との30年を語り始めた。
■親子の会話途絶える
あの日、喜一さんは神戸市灘区桜ケ丘町の自宅アパートから1人で仕事へ出掛けた。妻の彰子さん=当時(47)=を挟むように2人の娘が寝ていた。
父不在の中、午前5時46分、地震でアパートは全壊する。高校3年の長女は自力で外へ。生き埋めになった中学3年の次女は7時間後に神戸大のアメリカンフットボール部員たちに助け出された。
妻の彰子さんは亡くなり、苦しそうな顔で両手を上げていた。まるで落ちてくる天井を支えるかのように。「娘たちを必死に守ろうとしたんでしょう」
母の死を隣で感じた次女は地震後、暗い場所や狭い所を極度に恐れるようになった。トイレは扉に隙間を開けて入り、夜は寝室の照明を付けて寝る。昼と夜が逆転し、高校は進学校に合格したものの、朝に起きられなくなった。
仕方ない、と最初は思ったが、喜一さんの焦りは募った。「地震に負けずに生きてほしい」と厳しく諭すも、言葉は届かない。
けんかが増えた。ある日、テレビで学生らが募金を呼びかけるニュースを見て口走ってしまった。「見てみ、あの子らは偉いなぁ」。親子の会話はますます減った。
娘を追い詰めていたと気付いたのは、次女が大学に進み下宿を始めた頃だ。娘が心の整理をしようと書いていたメモを自宅で見つけた。「私が死んだらよかった」とあった。
「地震の時に一緒にいなかった僕が、娘の気持ちになるのは無理なんです。分かってあげられない罪深さを感じました」。気持ちの回復を待ち、心理学を学んだ。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を知った。
■言えなかったお礼
喜一さんは72歳で心筋梗塞を患い、淡路島で余生を送ろうと移住した。それでも心残りがあった。次女を救ってくれた大学生にお礼を言えなかったことだ。
名前を聞かず、大学に相談しても分からなかった。
04年には三宮・東遊園地であった「1・17のつどい」に参加した。遺族代表としてあいさつしながら、どこかで暮らす学生たちに「元気にやっています」と伝えたかった。
記者からアメフト部員たちのことを聞くと「奇跡みたいです」と答えるのがやっとだった。次女にLINE(ライン)で「ビッグニュースがある」と送ると、打ち返しがあった。
「再婚するの?」。最近はそんなふうに冗談も交わせる関係になってきた。きちんと伝えたら、娘は驚きを隠さなかった。
「私も捜したけど、分からなかったのに…」(山脇未菜美)























