神戸市兵庫区東山町にあるバス通りの交差点に、高さ1メートルほどの切り株がある。場所は、横断歩道のど真ん中。8月上旬、市がエノキを伐採して残った根元の部分だ。通行の妨げになるにもかかわらず、なぜわざわざ切り株を保存したのか。
交差点は、東山町の2丁目と4丁目の境にあり、コンビニエンスストアや薬局に面している。東山商店街やマルシン市場の近くのバス通りという立地から、車も歩行者も通行量が多い。
その横断歩道の一部、アスファルトの間から切り株が顔を出す。車の衝突を避けるため、鉄柵で囲われている。
何らかの由緒を感じさせるのが、巻き付けられているしめ縄だ。もともとは白かったのだろうが、風雨や排ガスの影響か、黒ずんでいる。
「あの木は、子どもの時からあった。もう90年の付き合いや」。東山町で生まれ育ち、地域の生き字引とされる山下照男さん(91)が、伐採前のエノキを懐かしそうに振り返る。
しめ縄が巻かれた経緯も知っていた。バス通りを挟んで向かいにあるお地蔵さんにお参りする人がいた縁で、その傍らに生えていたムクノキにしめ縄が付けられたという。半世紀以上前のことだ。
山下さんの記憶では、その際に「エノキも古いからしめ縄をするわ」となったらしい。つまり、エノキのしめ縄は、信仰や霊的なものが根拠となっているわけではなく、ムクノキの「ついで」だったというわけだ。
■切ろうとした人が落ちた?
一方で、地元住民の間で広がっているうわさ話はいわく付きだ。
「エノキに触ったらたたりがあると聞いたことはあるけど…」「戦争中の空襲で亡くなった人の遺体をあの辺りに置いたとか…」
こういった話を裏付ける資料や証言は得られなかったが、東山商店街でお好み焼き店を営む奥田美江子さん(74)が、一つの手掛かりをくれた。「横断歩道の真ん中やから邪魔だと普通思うやろ。でも一回切ろうとした人が落ちたとか聞いたことがある。結局、怖いからこれまで切ることができなかったんやろうな」
山下さんにこの話を向けると、似たような記憶があった。半世紀ほど前、ガス工事の際にエノキの根元を掘ろうとしてけが人が出たことがあったらしい。
エノキの周辺であった事故がしめ縄と結び付き、交差点の横断歩道という場所の珍しさも相まって「切ったらたたりがある」ということになった-のかもしれない。
推定ではあるが、少なくとも100年程度の樹齢を重ね、8メートルほどの高さに育ったエノキは、毎年青々とした葉を付けた。異変が確認されたのは、昨夏のこと。管理する神戸市の担当者が、表面にキノコが生えているのを見つけた。
木が腐り始めている兆候とみて、樹木医に診断を依頼する。根元に針を刺すなどして検査した結果、幹の4割が空洞になっている可能性が指摘された。
■エノキが事故を減らした?
交通量の多い場所だけに、市は倒壊のリスクを考えて伐採の方針を決めた。しめ縄が巻かれるきっかけになったというムクノキも、同じ理由で10年ほど前に切られ、姿を消していた。
「地元で大事にされている可能性がある」として市は今年3月、住民に説明を始めた。当初は根元から伐採する予定だったが、「残してほしい」との要望が出たという。
その理由は、たたりとは関係なかった。まちの風景が移り変わり、ムクノキもなくなった中で、変わらずにたたずむエノキが地域のシンボルとなり、住民の愛着につながっていた。
市は、この声に耳を傾けた。リスクを排除しつつ、モニュメント的に保存する「折衷案」を採用。8月上旬、しめ縄が傷つかない高さで伐採し、切り株を残した。
「エノキが、車の対面通行のポール代わりになっている」
市による住民説明の場では、交通安全を理由に保存を訴える声もあった。歩行者からすれば妨げでしかないが、自動車からすればエノキがあるからこそ接触事故を減らせている、というわけだ。
この意見を踏まえ、市は県警に相談した。すると、切り株が低すぎると車から見えづらくなり、気付かずに衝突する恐れがあるとの指摘を受けた。
切り株を残せば、ポールとしての機能も維持できる。どのくらいの高さで切断するのが最善かを調整したところ、程よくしめ縄が残ったという。市の担当者は「市が巻いたわけではなく、所有者も分からなかったため、勝手に捨てられなかったという理由もあります」と苦笑する。
■地元に残る別の伝承
伐採されたエノキが、実は兵庫区の歴史に深く関わっているとの説を唱える人もいる。中央区楠町の郷土史家、佐々木孝昌さん(51)だ。
このエノキが「旧湊川沿いに植えられていた」との伝承を地元で耳にしたことがあるという。旧湊川といえば、明治時代後期の工事で現在の湊川に付け替えられた。旧湊川は交差点の辺りを流れていたといい、川が消えてエノキが残った-ということらしい。
付け替え工事によって生まれ、隆盛を誇ったのが新開地であり、それ以前の名残はほとんどない。この説を裏付ける具体的な資料も確認されておらず、市も樹齢を特定していないが、切り株になった今もロマンが漂う。
湊川町に住む西村民枝さん(74)が、買い物途中に交差点を通りかかった。「高齢になると、横断歩道を一度に渡りきられへんからね。木の場所で立ち止まって、信号が変わるまで涼んでね」
そして、ぽつりと漏らした。「この地域に住んで70年、あの木が邪魔だと思ったことは一度もない」
(長沢伸一)