チャリティーイベント「MAKEMOVEMENTS」で講演する溝口靖子さん(右)=三田市駅前町、まちづくり協働センター
チャリティーイベント「MAKEMOVEMENTS」で講演する溝口靖子さん(右)=三田市駅前町、まちづくり協働センター

 やりたいことができるって、どれだけ幸せか。生きていることが、どんなに素晴らしいか。私が病気になったのは、今ある幸せをみんなに気付いてもらうため。自分でそう決めた。だから、生きざまも死にざまも見せたい-。指定難病「遠位型ミオパチー」患者の溝口靖子さん(35)=兵庫県三田市=が、市内で講演した。(まとめ・土井秀人)

 遠位型ミオパチーは、手足の先など体の中心から離れた部分から筋力が低下していく筋疾患。溝口さんは夫と6歳の息子と3人暮らしで、現在は電動車いすで生活している。動かせる右手の親指と人さし指で講演のデータなどを準備し、小学校でもお話会を開いてきた。

 保育士をしていた15年前、病気が分かった。「歩き方がおかしい」と指摘され、受診した病院で告げられた。

 この病気は100万分の1の確率なんですって。100万分の1に当たることってある? みたいな。それで宝くじを買ったけど、当たらなかった。病気になって、今やりたいことは何やろうって考えた。本当に時間がもったいない。これまではそんな感覚にならなかった。

 小豆島への一人旅、バイクの後ろに乗る、沖縄の海に潜る…。バンジージャンプは体重制限で飛べなかったから、友達が代わりに飛んでくれた。いつも、周りの友人が支えてくれた。

 つえをついて歩いていた時、やっぱり恥ずかしいんですね。でも、みんなが受け入れてくれた。友達の子どもはつえを剣にして遊んでいるし、ふと見たら友達が素振りをしたり、ゴルフをしたり。「私のつえって魔法のステッキみたい」と思わせてくれ、恥ずかしさは消えていった。

 20代半ばの頃、お店に行っても階段の上だったら上れなかった。友達が「いいで、おんぶしてあげる」というので、「あっ、お願いします」って甘えたけど、やってもらうことを自分が同じように返せないのが悔しくって。ありがたいけどちょっと惨めで、悲しくて、苦しいなって思うことがあった。

 でも、友達は「ありがとうって、にこっと笑ってくれたらそれだけで十分やから」と言ってくれた。苦しいけど、分かった。それから「ありがとう」って意識して使うようになった。

 病気になって一番つらかったのが、好きだった接客の仕事に就けなかったこと。雑貨店などを「受けまくった」が、すべて落ちた。

 まだつえをつく前だったけど、「いつかは動きづらくなります」とばか正直に話したら、落ちまくって全然仕事が見つからなかった。このままの自分を受け入れてもらえない体験を初めてした。社会って本当に冷たいと思った。私、役立たずか、動けるのになって。すごく悲しかった。

 その後、事務の仕事に就いた。書類に線を引くマーカーがふた式だったので、同僚に何げなく言った。「かんでふた開けていいですか。家ではそうしているんです」。笑いながら話したが、その人は上司に確認してノック式のマーカーペンを用意してくれた。私、ペンでこんなに泣ける人生、サイコーって思った。病気にならなければ、人の優しさや物のありがたさに何も感じず、通り過ぎて生きていたと思う。

 人生は「山あり、谷あり、まいどあり」だと思う。スナックのママとの会話で、病気になったことの意味を考えた。

 人から「何か意味があるから病気になったんや」と言われると、もやもやしていた。「何か」って何やねん。「神様は乗り越えられる人にしか試練を与えない」とテレビとかではいうけれど、そのことが原因で自殺する人もいる。

 あるとき、スナックのママに「あんたさあ、病気に何か意味があると思ってんの?」と言われた。「何かあるんちゃいます? 何かあるって言われるし」と答えたら、ママは「そんなん自分で決めたらええやん」って。なるほどねと思い、決めちゃいました。今ある幸せに気付いてもらうため、私は病気になってやったんやって。

 病気になって本当に幸せが増えた。病気ってネガティブなイメージだったけど、自分が思っていた世界には来ていない。すごく幸せに日々を過ごしている。

 私は病気にならないと気付けなかったけど、やりたいことができるってすごく幸せなことだと気付いてほしい。生きているってすごいこと。私を通して気付いてもらい、今ある幸せを感じてもらいたい。本当に何もできないけど、それだけは伝えられる。

 私のできなかった分も、みなさん楽しんでください。