神戸開港以後、1872(明治5)年頃には神戸を訪れていた外国人たちが、六甲山を越えて有馬温泉へ足を延ばすようになっていました。
当時、外国人は条約によって「遊歩区域」と呼ばれる範囲内でのみ自由な移動が認められていましたが、その区域には有馬温泉も含まれていたのです。
実際、この年、海外伝道組織「アメリカン・ボード」の宣教師ジェローム・デイヴィスらも有馬を訪れました。
そして74(同7)年には、有馬の人々が「毒水」と恐れていた炭酸泉を、オランダ人化学者のドワルスが「有益な炭酸水」と認定しました。
その頃の有馬には「清水ホテル」をはじめ、外国人向けのホテルが建てられ、本温泉(現・金の湯)も国際化を意識して、82(同15)年に西洋風建築へと改築されました。
翌年には、従来の温泉文化の一部であった湯女(ゆな)制度が廃止されます。外国人を迎える近代的な温泉地へ脱皮しようとしていたのでしょう。
当時、有馬へ向かう人々の多くは、小浜(宝塚)の宿に泊まり、船坂を越え、あるいは名塩経由で有馬へ向かっていました。
そうした中、「有馬には外国人がたくさん訪れている」という話が、宝塚の人々の耳にも入っていたと思われます。武庫川の右岸に湧く水を見つけ、「これは有馬と同じではないか」と考えたのかもしれません。これが、宝塚温泉発見とされる、84(同17)年のことです。
縁起の良い「宝」の字を取り入れて、「宝塚温泉」と名付け、87(同20)年には、4軒の旅館が開業しました。
さらに89(同22)年、イギリス人ジョン・クリフォード・ウィルキンソンが宝塚で炭酸鉱泉を発見します。後に「ウィルキンソン・タンサン」として知られる炭酸水の始まりです。
一方、その頃の有馬温泉では、やや急ぎすぎるほど西洋化、インバウンド化を進めた反動もあったのかもしれません。西洋風に改築された浴場は、日本人利用客から「使いづらい」と不評だったそうです。
また、当時の外国人たちは、そもそも温泉入浴をしなかったといい、本温泉は91(同24)年に再び宮造り風へ改修されました。
宝塚温泉が本格的に活況を呈するようになった契機は、97(同30)年に阪鶴鉄道(現・JR福知山線)が宝塚まで開通したことが挙げられます。
1910(同43)年には箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が開通。その頃には宝塚に「新温泉」が開業し、50軒もの旅館が並んでいたそうです。以後、宝塚は「大阪から便利に行ける温泉地」として大きく発展していきます。
一方、有馬温泉も交通網の発達によって発展を遂げました。1899(同32)年には阪鶴鉄道が三田まで延伸され、大阪からの湯治客は三田駅から駕籠(かご)や人力車に乗って有馬へ向かいました。
このように、有馬と宝塚は、温泉という地域資源に加え、鉄道網の発達と外国人来訪という時代の波に乗ることで、大きな発展を遂げていったのです。(有馬温泉観光協会)























