■「舟、潮吹くクジラのよう」
4月のある日、日が落ちた相生湾。船着き場に固定された手こぎ舟に乗って、若者が櫂(かい)を振るっていた。市民チーム「セピア倶楽部」のメンバーだ。
チームを率いる竹本洋人(ひろと)さん(58)=兵庫県相生市=は29年前、市民チームとして初めて優勝を経験した。「あの時はな、うちの舟だけ、クジラみたいやったんやで」。いたずらっぽく笑うと、あの初夏の話を語り始めた。
1993年5月のペーロン競漕(きょうそう)。造船所や事業所以外にも多くの市民チームが参加するようになり、IHI相生工場が守り続けてきた首位の座を狙っていた。
その5年前、竹本さんは同世代の仲間たちとチームをつくり、初めて出場した。竹本さんは花屋、ほかに大工や仏壇屋、高校生もいた。市民チームとして初めて「陸(くが)ペーロンチーム」がペーロン競漕に出場したのは、その前年のことだ。
公園に集まり、農家の仲間が作った櫂を振るう。勢いのまま3年連続で出場した竹本さんたちだが、造船所チームには歯が立たなかった。「水の切り方が違ったんや」。実力の差、同時にペーロンの奥深さを知った。「やっぱり生きた水をこがにゃ駄目だよな」。向かった先は相生湾に架かる「皆勤橋」だった。
係留された台船を借り、一斗缶を椅子にして海水をこいだ。バランスを崩してみんな海に落ちた。91、92年も敗れたが、造船所チームは手の届くところに来ていた。倒れ込むまで海水を毎日こぎ続けた。
93年のレースは挑戦開始から6度目。セピア倶楽部のメンバーの平均年齢は29歳になっていた。
決勝は300メートルを1往復半し、4チームが競う。セピア倶楽部はIHI相生工場チームの前に初めて出た。「俺らは本物の水をこいできた! 今度こそ勝てる!」。竹本さんは確信した。
残り300メートルで1艇身以上突き放した。艇長として舟の中央で指揮棒を振るっていた竹本さんは無意識に小さな木箱を握っていた。そして、舟に入り込んだ海水を懸命にかき出していた。その様子はまるで、潮を吹くクジラのようだったという。
3秒差で勝った。ペーロン競漕で造船所チームが敗れたのは初めてだった。全員が倒れ込み、太陽に向けて櫂を掲げた。みんな泣き叫んでいた。
チームは翌94年も勝って2連覇を果たしたが、優勝はそれが最後だ。今は世代も代わった。
「僕らは優勝という『花』を見た。その『花』はもう1回、見たくなる。地獄やった」。考えを巡らしながら竹本さんは言葉を続ける。「でもな、強いだけがペーロンやない。弱くても全力でぶち当たる姿がかっこええ時もあるんやな」(地道優樹)
【バックナンバー】
(3)ギャルペーロン
(2)中止の危機
(1)播磨造船所
