「苦しんだ時期も無駄じゃなかった」。これまでの歩みを振り返る近田怜王さん=京都市左京区、京都大吉田キャンパス(撮影・長嶺麻子)
「苦しんだ時期も無駄じゃなかった」。これまでの歩みを振り返る近田怜王さん=京都市左京区、京都大吉田キャンパス(撮影・長嶺麻子)

 8月。甲子園では夏の高校野球があります。元プロ野球投手、近田怜王さん(34)=兵庫県三田市出身=は高校時代、甲子園に3度出場、ソフトバンクに入団しました。しかし、輝かしい歩みの陰では、思うように投げられなくなる運動障害「イップス」に苦しんでいました。現役引退後は駅員や車掌を務め、今は京都大硬式野球部の監督です。近田さんが「挫折」をテーマに話してくれました。(聞き手・中島摩子)

 -イップスの症状は人によってさまざまです。近田さんの場合は?

 「報徳学園高(西宮市)2年のときでした。その夏の甲子園大会は試合中に両足がつって降板。先輩たちとの最後の試合だったのに申し訳なくて…。3日後の練習中に熱中症で意識を失い、救急車で運ばれました。異変に気付いたのは退院後。5メートル先にも思ったように投げられません。イップスという言葉は知っていましたが、認めたくなくて、熱中症の後遺症だと考えるようにしていました」

 「誰にも弱音を言えなかった。朝練に一番早く来て、みんながいない部室で1人、泣く。しんどかったです。ピッチャーじゃない自分は自分自身が認められない。チームにいる意味がない、と考えていました」

 -野手で出場した秋の近畿大会を経て、春の地区大会は投手としてマウンドに。

 「なんとか復帰しましたが、試合ではストライクが入らず負けました。球場からの帰り、母に『野球をやめる』と言いました。母は『やめるのは簡単だけど、やりきることだけはやってほしい』と。それから考えました。以前、キャプテンに『ちかちゃんはチームの戦力。できることをみんなと一緒に』と言われたことを思い出しました。チームが勝つために、自分が投げなくても戦力になればいい。みんなとの野球を楽しもう-。そう考えると、笑顔で練習する時間が増えてきました」

 「3年の最後の夏の大会前、やっと気付いたんです。投げた球がボールになっても『イップスだから仕方ない』『四球を出しても次を抑えたらいい』と。それまでの僕は完璧主義で、こうしなきゃ、できなきゃ、という考えにがんじがらめになっていました。自分はイップスだと認めたら、不思議と球速が5キロぐらい上がりました」

 -2008年の甲子園大会はエースでベスト8。ドラフト3位でソフトバンクへ。

 「全く通用しませんでした。ことごとく打たれ、一番下からのスタート。努力しようと心に決め、2年目は1軍のオープン戦で投げるところまでこぎつけましたが、肩を痛めて…」

 -1軍の公式戦登板がないまま、4年目に戦力外通告を受け、JR西日本に入社。社会人野球でもイップスなどの影響があり、約3年で現役引退しました。2015年12月から三ノ宮駅の駅員や車掌として働きましたね。

 「電車が遅れると、お客さんからよく怒られました。でも、丁寧に説明すると理解してくれる人もいます。駅員の仕事を通じて、相手への言葉のかけ方を学び、その人が何を求めているのかを考える力が養われたと思います」

 -会社の先輩に京都大の元監督がいた縁で、17年からコーチ、21年からは監督に。リーグ戦の好成績が注目されています。

 「駅員の経験が学生と接する上でも役立っていると思います。教える立場になると、相手の努力や苦労を理解しないといけません。自分はイップスで苦労し、挫折した経験があるからこそ、悩んでいる子に寄り添う指導ができているのかも。イップスがあって今の僕があると感じます」

 -生きづらいと感じている人たちにメッセージを。

 「生きづらいと感じるのは、心が豊かだからこそ。『そういう時もあるよね』と受け止め、自分が何がしたいのかを考えることが大事。その人にはその人のタイミングがあり、蓄える時期、経験の時期があると思います。自分のこれまでを振り返ると、無駄なことはなく、全部がつながっていると思います」

【ちかだ・れお】1990年生まれ。三田市出身。本格派左腕として、報徳学園高時代は2年時に春夏連続で甲子園出場。3年夏は甲子園8強に進出した。2009年、ドラフト3位でソフトバンク入り、12年退団。社会人野球のJR西日本でプレーし、引退後は15年12月から駅員、19年から車掌に。20年秋から京都大硬式野球部に出向。読書家で、愛読書は高校時代の数学の恩師から贈られた「論語」。1児の父。京都市在住。