兵庫県豊岡市の東端、京都府との府県境に近い但東地域。国道482号を走ると、山と田んぼばかりの視界に突如、近未来的な不思議な白い建物が飛び込んでくる。「日本・モンゴル民族博物館」(同市但東町中山)だ。建物前には、鮮やかな青色のよろいでやりを手にした勇ましいチンギスハンの騎馬像。なぜここに「モンゴル」なのか。その歴史には、地元を守ろうとする住民の思いと、モンゴルの民主化という歴史的背景や、研究者が引き合わせた偶然があった。2回に分けて紹介する。(石川 翠)
同館は1996年11月、当時の但東町が開館した。モンゴルで実際に使われていた遊牧民のゲルや衣装、楽器のほか、昔の生活で使われていたシラカバの容器など、生活道具が多くそろっている。モンゴルに詳しい大阪大の今岡良子准教授は「これほど貴重な民族資料がそろっている博物館はモンゴルにもない」と話す。
所蔵品の多くは、元モンゴル大使館員の故金津匡伸氏から寄贈された。ソ連崩壊後の91~94年、混乱期のモンゴルにいた金津氏は、貴重な民族資料が買いたたかれ、海外へと流れていくのを見かねて、自費で大量に買い集めた。
当時、モンゴルとの交流を深めていた但東町を知った金津氏が約2500点を寄贈し、これが同館開館のきっかけとなった。金津氏は同町に移住して交流事業に尽力。2009年に亡くなった。
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さかのぼって1985年。目立った産業のない山村の但東町で「心まで過疎になるな」と、むらおこし運動が始まった。特産の絹織物と、それを京都に運んだ旧街道を掛け合わせて「但東シルクロード計画」と名付けた。農村の良さを知ってもらい、都市部との交流を増やす試みだった。
そこへ、思わぬ問い合わせが入った。大阪外国語大(現大阪大)モンゴル語学科の小貫雅男教授(当時)が、学生たちに農村でフィールドワークを学ばせたいと申し出た。
当時、社会主義体制だったモンゴルには、民間人が行き来できる状況ではなかったため、小貫教授は現地に行ける日が来るまで、農村実習ができる地域を探していた。学生たちは農家に寝泊まりしながら住民に話を聞き、農村の生活を調査した。
ソ連崩壊間近で民主化運動が盛り上がり、89年、学生たちはついにモンゴルへと向かった。
当時、大学院生だった今岡准教授は「大阪で生まれ育ったので、但東で地方の暮らしを肌で感じながら学べたことは大きかった。わらじを作る但東の人と、ヒツジやラクダの毛でロープを作るモンゴル人の手の動きが同じなど、共通する知恵を発見した」と振り返る。
その後も交流は続いた。但東町民も大阪外大のメンバーからモンゴルの話を聞き、遠い国の人々の暮らしに思いをはせるようになった。ゴビ砂漠での厳しい生活。首都ウランバートルへと人口が流出する地方。日本の地方が抱える問題と重なった。
93年、住民8人が第1回友好使節団としてモンゴルを訪問した。但東町のシルクロードはモンゴルへと通じた。
モンゴルからも多くの人が訪れた。農家にホームステイをして、中学生が但東中学校に3カ月間の短期留学することもあった。画家を数カ月招いて創作活動を支援したこともあった。町民たちは歓迎し、関係を深めた。
日本からの友好使節団は12回にわたり、127人が参加したが、2018年以降は途絶えている。
【日本・モンゴル民族博物館】午前9時半~午後5時(入館は同4時半まで)。水曜休館。入館料500円(高校・大学生300円、小中学生250円)。近くには「たんたん温泉福寿の湯」(23日まで臨時休業)がある。日本・モンゴル民族博物館TEL0796・56・1000
