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チャーチル英首相が描かれた的を狙う競技
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チャーチル英首相が描かれた的を狙う競技
1943(昭和18)年の演目の一覧
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1943(昭和18)年の演目の一覧
4日後に入営を控える教員(手前)が指揮をとった最後の姿
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4日後に入営を控える教員(手前)が指揮をとった最後の姿
父忠雄さんが撮影した写真集を持つ川見章夫さん=豊岡市出石町
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父忠雄さんが撮影した写真集を持つ川見章夫さん=豊岡市出石町
運動会の様子を撮影した川見忠雄さん
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運動会の様子を撮影した川見忠雄さん

 太平洋戦争中に兵庫県豊岡市出石町の弘道国民学校(現弘道小学校)で開かれた運動会の写真を、同町の川見章夫さん(73)が初公開した。同校の教員だった父忠雄さんが撮影した35枚には、いきいきとした表情で競技に挑む児童が納まり、戦時色が濃くなっていく様子が捉えられている。事実を克明に伝えようと、1枚ずつに説明文も記していた。写真をもとに、出石での戦中を振り返る。(丸山桃奈)

■カメラが趣味の教員が撮影

 忠雄さんがかつて暮らした自宅を整理していた3年ほど前、「運動會 昭和17・18年度」と筆で書かれたアルバムを見つけた。演目のプログラムが張られ、1ページに1枚の写真と説明文が添えられている。

 忠雄さんは当時30歳で、高学年の担当をしていたという。カメラが趣味で、教員として運動会を撮影したと思われる。1942(昭和17)年の運動会は、近くの幼稚園児らも参加した。

 種目は綱引きや50メートル走、剣道のほか、園児が踊る「かちかち団子」や「相撲体操」などの演目がある。一般的な演目は少なく、「密林突破」「特務兵」「戦場運動」など戦争関連がほとんどを占めた。

 “肉を切らして骨を切れ”台上に釼(つるぎ)とるは中井彦道先生。先生はそれから四日後入営。今は兵隊さんで身を以(もっ)て手本を示されました。これは本校での最後の先生の英姿です

 日の丸の鉢巻きを頭に巻いた上半身裸の男児たちが剣道を披露した演目だ。指揮をとった先生は出兵後、行方は分かっていないという。

 戦場運動のザンコウを跳び令や南京の光華門を思はせる城壁突破だ。勢(いきおい)するどくとびつき跳び越すのだ。銃は空に円を描く。頑張れ 頑張れ

 男児たちが銃を背負い、壁を登って越えていく「戦場運動」だ。忠雄さんは、拍手したり声援を送ったりする女児や、全力で綱を引っ張る男児にレンズを向け、運動会の白熱した様子を押さえていた。

■1年男児の演目「米英撃滅」

 翌年の運動会は「頑張りませう勝つまでは」「米英撃滅」「模型飛行機飛翔」「斥候(せっこう)兵」などが演目に加わった。忠雄さんの言葉も戦時色を増していった。

 女児のなぎなたでは「身を殺して人を刺す。必殺の気を感ず」「米英何ものぞ撃ちてし止まん。大上段より背骨も切れよと撃ち下す薙刀(なぎなた)」と記した。

 1年男児の演目「米英撃滅」では、チャーチル英首相の肖像画が描かれた的に球を投げた。

 一たび彈をもって来たからには撃滅せず人は帰ること出来ぬ。“エイ”失敗。“エイ”あたった。

 「出石町では戦争の直接の被害はなかったが、知り合いが出兵するなど、戦争が身近になっていた中での運動会。戦意高揚の一つ」と川見さんは話す。

 川見さんは「国民学校だったので、父自身『国のために動いているんだ』との気持ちはあったと思うが、教員として『子どもの表情や様子を残したい。戦争が身近になっていった事実も将来伝えたい』との思いもあったのでは」と想像する。「写真や描写などを今、伝えられる幸せもある。多様な価値観を大切にして、その時代がどうあったのか、これからどうあるべきかを考え続けなければならない」と語った。

 川見さんは今年3月、出石町での戦前戦後の写真を収集するサークル「出石ヒストリー」を結成した。終戦前年の44年の運動会の写真は見つかっておらず、「運動会があったかも分からない。運動会どころではなかったのかもしれない」という。

 31日まで弘道地区コミュニティセンター(豊岡市出石町)で、運動会の写真や戦時中の紙芝居などを展示している。

■当時4歳の男性「音楽、今でも歌える」

 1943年の運動会に参加した当時4歳だった大橋直人さん(83)が当時を振り返った。疎開地だった出石町でも日常的に戦時下の雰囲気は濃く、「一度出撃して戻ってきた『在郷軍人』が軍服を着て歩いていたり、空襲警報が鳴っていたりしていた」という。

 競技に参加したことは覚えていないが、見ていた記憶は鮮明に残っており、「小学校のお兄ちゃんたちが相撲体操を披露していた時の音楽は今でも歌える。行軍の練習をしていたお兄さんたちの姿は勇ましかった」と思い返す。

 運動会後、登園すると、運動会で使っていたチャーチル英首相とルーズベルト米大統領の肖像画が設置されていた。玉入れの玉が置いてあり、「的に玉を投げつけてから、園舎に入っていた」と当時を思い出す。

 終戦の玉音放送も自宅で家族そろって聞いた。幼稚園児ながらショックだった。おばは「これからどうするの」と声を上げた。終戦直後は悪い風評が流れ、「外に出るな」と言われていたため、「家の周りには人が歩いておらず、新型コロナウイルスが流行しだしたころのようだった」という。

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