但馬

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リフトの列に並ばず、雪の階段を上って上がる客も多かった=昭和30年代ごろ(日高神鍋観光協会提供)
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リフトの列に並ばず、雪の階段を上って上がる客も多かった=昭和30年代ごろ(日高神鍋観光協会提供)
中島久太郎さん=1934年、大机山(神鍋ハイランドホテル提供)
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中島久太郎さん=1934年、大机山(神鍋ハイランドホテル提供)
PRのために城崎温泉の芸者も招いた=昭和初期(日高神鍋観光協会提供)
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PRのために城崎温泉の芸者も招いた=昭和初期(日高神鍋観光協会提供)
上空から撮影したアップかんなべスキー場=豊岡市日高町栗栖野(日高神鍋観光協会提供)
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上空から撮影したアップかんなべスキー場=豊岡市日高町栗栖野(日高神鍋観光協会提供)
中島久太郎さんの息子の健さん(右)と孫の丈裕さん=神鍋ハイランドホテル
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中島久太郎さんの息子の健さん(右)と孫の丈裕さん=神鍋ハイランドホテル

 スキー板を担いだ集団がぞろぞろと雪山を登る様子を収めた白黒写真。リフトを利用せず、自力で頂上を目指すスキー客だという。昭和30年代に撮影されたとみられる写真の場所は、現在の「アップかんなべスキー場」(兵庫県豊岡市日高町栗栖野)の北壁コースだ。雪上にひしめくほどの大勢のスキー客でにぎわう時代もあった神鍋高原のスキー場が、今年で発祥から100年を迎える。

■「新しいもの好き」大正時代の地元の名士が

 1923(大正12)年2月、スキー場の開発に向けて神鍋山の北側にある大机山(おおつくえやま)に踏み入ったのが、地元の名士、中島久太郎(ひさたろう)さんだった。酒蔵への出稼ぎやわら仕事が主流だった雪深い神鍋で、地元に冬場の新たな産業を生み出そうと思い立ったのだ。「滝に発電所をつくるなど新しいもの好きだった」と、息子の健(たけし)さん(76)が教えてくれた。

 日本にスキーが伝えられたのは、オーストリア軍人が新潟県の旧陸軍に山歩き用に指導した11(明治44)年である。スポーツとして民間に広まり、うち兵庫県では22(大正11)年に段ケ峰(同県朝来市生野町)で登山家がスキーを取り入れたのが最初だとされる。

 翌年には久太郎さんが神鍋の開発に乗り出し、その後、但馬各地の山でのスキー登山や、城崎温泉にもゲレンデスキー場ができるなど、昭和初期にスキー文化が一気に広まった。

 私費も多く投じていた久太郎さんは「神鍋だけでなく、但馬全体の活性化を意識していた」といい、20年代後半には城崎温泉近くの円山川で水上飛行機を飛ばす会社を立ち上げたこともある。

■ジャンプ台やリフトも早々に整備

 久太郎さんは神鍋を有名なスキー場にしようと、28(昭和3)年に「全関西学生スキー選手権大会」の第1回を開催した。31(同6)年にジャンプ台を建設し、リフトを敷設したのは戦後の54年で、当初は木柱だった。城崎温泉の芸者に日本髪と着物姿のままで滑ってもらう珍しいPR方法も行った。

 その後も目覚ましい発展を遂げていく神鍋のスキー場は、70~90年代の最盛期に1シーズンで40万人超のスキー客を集めた。一般の民家は民宿に様変わりし、その数は約330軒(83年時点)に急増していた。奥神鍋スキー場運営会社の井上博夫社長(66)は「民宿の廊下に寝泊まりする人がいるほどのにぎわいだった」と振り返る。

■不安定な降雪量から逆転の発想

 一方で雪の降雪量が安定しない但馬地域では、雪不足に悩まされることもあった。念願だった国民体育大会「第12回冬季大会」の1957年も雪が少なく、開催が危ぶまれた。当時の新聞記事には北海道勢の選手たちが「われわれが雪を集めてでもやりますよ」と、地元住民たちを慰めたというやりとりが載ったほどだった。

 結果的に一定の積雪に恵まれて無事に開かれたが、その後も雪不足で大会が中止になったり、客入りが急減したりした年もあり、スキーシーズンの盛衰は積雪量に左右された。冬季への過度な依存リスクを避けるために早くからキャンプ場を開設するなど、「グリーンシーズン」の誘客にも力を入れ始めているのも神鍋の特徴だ。

 現在は10カ所あったスキー場は閉鎖や統合によって3カ所になり、民宿も約90軒になった。

 久太郎さんの孫で「山の家浄山 神鍋ハイランドホテル」(豊岡市日高町太田)社長を務める丈裕さん(45)は「四輪バギーなどのアクティビティーを増やしている。新しい取り組みを続け、次の100年につないでいきたい」と力を込めた。

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