ＪＲ香住駅（兵庫県香美町香住区七日市）の待合室に有志がお薦めの本を飾る本棚「ステーションライブラリー」。最下段には「はじめてのおつかい」「ふしぎな月」など、大人も思わず手に取りたくなるような、すてきな絵本が並ぶ。「３びきのくま」（トルストイ作、バスネツォフ画）のページをめくりながら、ふと気になった。「選んでいるのは誰だろう？」（長谷部崇）

　ある晩、その人に待合室で出会った。鳥取市の文房具会社に勤め、２００７年から香住に単身赴任している伊藤善則さん（６２）。「よかったら、１冊紹介しましょうか」と声をかけてきた彼が手に取ったのは「ナマケモノのいる森で」。環境問題を描くフランスの仕掛け絵本だ。

　伊藤さんは、鳥取県倉吉市出身。進学した東京の私立大で図書館の司書課程を履修し、絵本にのめり込んだという。きっかけは、児童文学論を教える先生だった。

　「小柄で上品なおばあさんでね。シルバーグレーのショートボブに、黒のベルベットのワンピース。白い靴下にエナメルの黒い靴。口紅は真っ赤だった」。その先生が３００人教室にトコトコと現れ、「にゃあにゃが　ほらほら　いないいない…ばあ」と絵本を読む姿に「バキューンとやられた」という。

　だが、彼女は超スパルタだった。ゴールデンウイークの課題は、公共図書館の児童書コーナーについて都内１０館以上のリポート。夏休みは絵本３００冊以上の書評だったが、伊藤さんは負けじと５００冊近くを提出した。数をこなすうち、「多くの中から一期一会の１冊と出合う喜びを知った」という。

　図書館学を学び、大学図書館でアルバイトをしながら、ボイラー室の隣に布団を持ち込んで４カ月住み込んだこともあった。そのまま司書として勤めるつもりだったが、結局は地元の鳥取に戻って文房具会社に就職。絵本の世界からいったん離れたものの、結婚して子どもが生まれると、再び「絵本熱」に火が付いた。

　年が離れた子ども２人のＰＴＡ役員を延べ２２年務め、その間地元の小学校に寄贈した絵本は１７００冊に上った。「父親が絵本を読む姿をもっと見せないけん」と、地域の読書ボランティアにも参加。鳥取市内の小中学校を巡って司書たちと親交を深め、同市立図書館の協議会委員も務めた。児童書に造詣が深い親として、あちこちから講演を頼まれた。

　香住に単身赴任後も、小学校の読書ボランティアとして活動。「古民家喫茶＆レンタルスペース岡見」（香住区一日市）や「クラム　ブレッド＆コーヒー」（同区七日市）、「焼き菓子と珈琲のお店　時と」（同区余部）など香住の人気店には伊藤さんのお薦めする絵本が並ぶ。

　「絵本には始まりと終わりがあり、場面の変化や主人公の成長する姿が描かれ、必ず希望がある」と伊藤さん。「大人が絵本を読んであげると、子どもは絵の世界に吸い込まれ、その声に想像力をかき立てられ、心地よさや楽しさを見いだす。そばにいる大人はそれに寄り添い、ただ絵本を読んであげるだけでいいんです」

■忘れられないエピソードが…　朗読に感動した元不良少年「子どもに毎晩読んでやりよる」

　伊藤さんには忘れられないエピソードがある。約２０年前、ＰＴＡ役員だった鳥取市立中学校の図書館を訪れると、３、４人の不良少年がテーブルの上を跳び回っていた。

　真っ黄色の髪。安全ピンのようなピアス。腰まで下げたズボン。小さいころから知る少年たちだった。「お前ら、授業受けられんなら俺が絵本読んだる」。伊藤さんは、ポーランド出身の絵本作家、ユリー・シュルビッツの「よあけ」を開いた。伊藤さんが前年に寄贈した絵本だった。

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　「おともなく、しずまりかえって、さむく　しめっている」

　この絵本に描かれるのは夜の湖畔。暗がりの木の下でおじいさんと孫が眠っている。

　「つきが　いわにてり、ときに　このはをきらめかす」

　「しだいに、ぼおっと　もやがこもる」

　「とりがなく。どこかでなきかわす」

　やがて空が白み始め、おじいさんが孫を起こす。２人が湖にボートをこぎ出すと、ついに日が昇り、世界は一面色鮮やかに－。

　「そのとき」

　「やまとみずうみが　みどりになった」

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　伊藤さんが本を閉じると、じっと見入っていたピアス君は一言、「感動した」とつぶやいた。

　それから４年後。吹雪の夜、近所のコンビニに立ち寄った伊藤さんは、ピアス君と偶然再会した。黒髪に職人のような格好。すでに働いているようだった。

　「おっちゃん、あのとき絵本読んでくれたけえ、缶コーヒーおごるわ」。店の前で２人並んで、吹雪を眺めながら缶を開けた。

　「俺な、子どもができて、毎晩絵本読んでやりよる」とピアス君。その絵本とは、伊藤さんがあの日読んだ「よあけ」だった。「あの本ええだが」と彼は言った。「だっておっちゃん、夜が明けるだあが」