豊岡のエトワール広場こと「寿ロータリー」。南西から北東の方向に「寿通り」が貫く。中央の緑地は寿公園=豊岡市泉町
豊岡のエトワール広場こと「寿ロータリー」。南西から北東の方向に「寿通り」が貫く。中央の緑地は寿公園=豊岡市泉町

100年前の「大豊岡構想」

 「北但大震災を調べてるんか。それなら、面白い話があるで」。昨年末、ある人が耳打ちしてくれた。それは、豊岡市泉町にある円形交差点「寿ロータリー」と、ロータリーを射抜くような形でJR豊岡駅近くから円山川方面に延びる「寿通り」にまつわる謎という。

 この二つは、1925(大正14)年5月にあった北但大震災の数年前に整備され、「パリのエトワール広場、シャンゼリゼ通りを模倣した」といわれる。豊岡をパリのようなまち並みにしたいと夢見たということだが、「誰が言い出したのか、さっぱり分からない」という。

 当時の豊岡では、円山川の大規模な河川改修と耕地整理名目での「豊岡パリ化計画」、今の京都丹後鉄道宮豊線の整備、上水道の整備などが同時期に進んでいた。ロータリー内の寿公園がほぼ完成した2カ月後に北但大震災が起こり、豊岡町(当時)では火災でまちの約半数に当たる993戸が焼失、234戸が全壊した。杞柳産業が栄えた市街地も大部分が焼け野と化したが、震災前から「豊岡パリ化計画」が動き出していたことで、一気に復興が進んだとされる。

 「豊岡を、パリに」。100年も前、こんな壮大なロマンを誰が考えたのか。実際にパリを見た人がいたのだろうか。