戦後、公職追放を受けた父が抱えた思いを見つめ直し、エッセーにまとめた吉見進さん=丹波市市島町酒梨
戦後、公職追放を受けた父が抱えた思いを見つめ直し、エッセーにまとめた吉見進さん=丹波市市島町酒梨

 私の父、謙治は1901年(明治34年)に生まれ、1986年に亡くなりました。85年の生涯でした。私がこの父の事を、「厳父慈母」という題で小説に書いて神戸新聞に載せてもらったのが、1990年。私が57歳の時でした。小説では母にずいぶん優しく肩入れしていますが、父については子供の頃から、ちょっと馴染みにくい疎ましい感情がつきまとっていて、親しみにくい存在であったように書いています。出征から帰ってきた戦後の父についても、母の苦労を強く思うあまり父の生き方へは抗う気持ちが常にあって、一家を支える父親なのに身勝手な人だという思いが心の底に常に燻っていたように書いています。

 今、私は父の享年より7年以上も長く生きてきて、今更ながら、父の思惑、特に戦後の父の心底、胸奥がどうやらかなり見えてきたような気がしています。そして、その心底には「戦争惚け」と揶揄して呼ばれることへの遣る方ない、暗い無念の思いが渦巻いていたのではないかと、今になって思えてくるのです。

 村役場で収入役をしていた父に赤紙、召集令状が来たのは1944年7月、私が小学校、当時は国民学校と呼ばれていた6年生の時でした。担任の先生に「お前のお父さん、兵隊に行ってんか」と聞かれたことを思い出します。43歳、村で最年長の召集兵でした。村に兵役経験者で父より年下の人は大勢いましたが、そんな人たちを差し置いて、なぜ年長の父に召集が来たのか当時は分かりませんでした。

 日本は明治時代以来「国民皆兵」といって満20歳になった男子に3年間の兵役を義務づける徴兵令がありました。父もこの徴兵令に従って兵役につき3年の満期の後も、次男だったこともあって志願をして何年か継続して兵役に従事したようです。海軍の水兵で軍艦「千歳」に乗っていたことを誇らしげに話したことがあります。その兵役の後は村役場に吏員として勤めていました。私が父の存在を意識し始めたのは、この役場の吏員としての父であり、また小説に書いた、私が含羞の思いで弁当を届けた頃の父は、役場の一番奥まった席にいて収入役をしていました。

 そんな父に召集令状が来たのは、若い時に義務の兵役期間の3年終了後も、志願までして長く兵役に従事したことによるのかもしれません。また当時、在郷軍人会という退役軍人を主な団員とする全国的な団体があって、各町村にも在郷軍人分会という団体が置かれていました。当然、私の村、美和村にも美和村在郷軍人分会というのが置かれていて、役場の収入役の父が、その分会長を兼ねさせられていました。父の前に分会長をしていたのは、僧侶で陸軍の将校でもあった人で、召集令状が来て出征されました。この方、間もなく戦死されました。その後に海軍軍人として兵曹長になっていた父が、収入役なのに在郷軍人分会長を兼ねさせられていたのです。この在郷軍人分会長だったのも村で最年長で召集されたもう1つの理由かもしれません。この在郷軍人分会長だったことが、戦後に大きな禍根を残すことになります。