自然の凶暴化と社会の脆弱(ぜいじゃく)化は、残酷で凄惨(せいさん)な災害をもたらす。そのことを実感させる地震が、元日の能登半島で起きてしまった。
前例のない地震が前例のない破壊をもたらしている。大規模な地震動が繰り返し発生する、各所で大規模な隆起や沈降が起きる、瞬時に津波が押し寄せるといった、前例のない地震が起きた。
その地震は、広範囲の道路の寸断と情報の途絶をもたらし、地理的孤立だけでなく社会的孤立をも招き、無援による関連死を次々と引き起こすといった、前例のない被害につながっている。
前例のない災害には前例のない対応が求められる。過去の経験に学ぶだけでは不十分で、過去の経験に縛られない新たな挑戦がいる。経験の継承に努めつつ、経験の刷新と創出をはかるのだ。
なお、この経験の刷新では、新旧の被災地である能登と阪神・淡路の協働が欠かせない。支援の恩返しとしての経験のバトンリレーが不可欠だからである。この相互検証というリレーは、能登の災害復興のためのものではあるが、同時に阪神・淡路の災害防備のためのものでもある。
■教訓伝承の普遍化に課題
ところで、能登の地震対応では、阪神・淡路大震災などの過去の経験に学んでいない、という声が上がっている。確かに、初動対応のあり方やボランティアとの連携、災害備蓄の内容、避難所運営の実態をみても、過去の教訓が生かされていない。
ところで、過去の経験が生かされない場合は、被災地の自治体など学ぶ側が責められがちである。しかしその原因が、学ぶ側だけでなく伝える側にもあることを、忘れてはならない。被災地の経験や教訓を正しく伝えていたか、その教訓が身に着くよう丁寧に伝えていたかが、問われている。
そこで、阪神・淡路の教訓が能登やその他になぜ伝わらなかったのかを、自省の念をもってチェックしてみた。そうすると、伝える内容や伝え方に大きな欠陥のあったことが分かる。そこで浮かび上がってきた主要な伝承の課題を以下に列記しておく。
第一に、成功体験だけを伝えるのではなく、失敗体験こそ積極的に伝えなければならない。過ちの発信がないと、同じ過ちの発生を招くからだ。無数の関連死を生み出したこと、再建過程でコミュニティーを破壊したことなど、その原因分析も含めて伝え、再発防止をはからなければならない。
第二に、相手の置かれている状況や立場を理解し、伝えなければならない。伝承には相手の特質を知ること、相手に寄り添うことが求められる。伝承では多様性の配慮も欠かせない。大都市の神戸の教訓はそのまま過疎地の能登にあてはまらない。地域事情に応じて教訓を翻訳しなければならない。
第三に、自らがまず模範を示し、実績を示すことが求められる。隗(かい)より始めよである。教訓は、言葉で伝えるより実績で伝えた方が説得力を持つ。住まいの耐震化や家具の転倒防止あるいは街並みの不燃化など、自ら実行していないことを、いくら重要だといっても相手の心には響かない。
第四に、教訓を持続的かつ系統的に、伝えることが求められる。教訓が定着するまで繰り返し発信すること、多様な手段で定着をはかることが求められる。教訓集を印刷して終わりではなく、それを活用した研修や訓練がいる。出前講座や訓練ゲームで定着をはかることも推奨される。
折しも来年で、阪神・淡路大震災30年を迎える。大震災から30年の教訓を再確認し、その教訓を歴史に残す大切な節目である。その節目を目前に、能登半島地震が起きた。能登半島地震からの復興をはかりつつ、阪神・淡路大震災からの復興を検証するという、二眼レフのカメラが必要になった。
ところで、この30年の節目の1月17日をいかなる形で迎えるのか。災害の時代に終止符を打つための羅針盤を示せる日にしたい。南海トラフ地震に楽観的に向き合うためにも、震災の検証の総仕上げに挑戦しなければならない。
この検証にあたって、留意すべきことは、市民性、総合性、通年性の三つである。市民性は、検証の中心に市民が座ることを求めている。震災復興の主要な教訓は市民主体であった。それゆえにこそ、市民が検証をリードしなければならない。
総合性は、多彩な視点や多様な角度で教訓を掘り下げることを求めている。自然と社会を融合する視点、福祉や教育を貫く視点、グローバルとローカルをつなぐ視点がいる。横断的で包摂的な論議の場を用意したい。
通年性は、1年間を通して論議し教訓の再検証をはかることを求めている。1月17日だけのお祭りにしてはならない。毎日どこかで市民が集い、教訓を培ってゆく1年にしたい。
30年の節目は次の世代に教訓を伝える機会であり、担い手の世代交代をはかる機会でもある。未来を拓(ひら)く希望の花が一斉に開花することを願っている。
(むろさき・よしてる=CODE海外災害援助市民センター代表)
























