交通事故を目撃した。車が歩行中の高齢女性に接触し、女性はその場に倒れた。現場には若い男性と私だけ。男性が119番通報すると、20分後にようやく救急車が到着した。女性は話ができる状態だったが、もし重傷だったら救命講習を受けたことのある私がすぐに心肺蘇生しなければならなかったろう。胸骨圧迫に耐えられるか不安だったため、正直、女性が自力で立ち上がれてほっとした。
久坂部羊さんの『欲張らない死に方』の一節が脳裏をよぎったからかもしれない。在宅医でもある作家の久坂部さんによれば、心肺蘇生は「ほぼ拷問に近い」という。
「気管内挿管は鉤(かぎ)状の金具のついた喉頭鏡を、こじ開けた口に突っ込み、のどの奥に硬くて長いチューブを差し込む行為で、高齢者の場合は簡単に前歯が折れ、歯がない場合は金具が歯茎に当たって出血する。心臓マッサージでは肋骨(ろっこつ)や胸骨がバキバキと折れ、カウンターショックでは皮膚が火傷(やけど)を負い、煙が立ち上ることさえある。意識がないからまだしも、もし刺激で意識がもどったりすれば、命の最後に恐ろしい苦痛を味わうことになる」
■どう迎えるか「人生会議」を
救急隊なら消防庁と自治体の救急手順にのっとって心肺蘇生を開始するだろう。事故や外傷なら救命が最優先だが、余命わずかな病気で在宅療養中の家族だったらどうか。本人が蘇生拒否の意思を書面にしてかかりつけ医も家族も了解していたとして、いざ目の前で容体が急変しても119番ではなく、かかりつけ医に連絡できるだろうか。家で穏やかに旅立ちたいという本人の意思を尊重するなら、久坂部さんが書くように、救急車を呼ばないことしか打つ手はないのか。
実はこの問題を調査した論文が9月1日、国際医学誌「Resuscitation Plus」に発表された。岡山大学医学部の田邊綾・客員研究員のチームが、全国791の消防本部と救急活動の医学的な質を管理するメディカルコントロール(MC)協議会を対象に、救急隊が心肺蘇生を中止できる「手順」がどこまで整備され、実際に機能しているかを調べた。判明したポイントは三つ。
第一に、「心肺蘇生を望まない」と意思表示していた患者の約7割が、心肺蘇生を受けながら病院へ搬送されていた。
第二に、救急隊が現場で心肺蘇生を中止できる「手順」をもつ消防本部は、回答のあった561本部のうち約半数にとどまった。
第三に、「手順」を持つ消防本部でも、その半数は1年に一度も手順を使っておらず、「ルールを作ること」と「実際に使うこと」の間に大きな溝があった。
「手順」とは、心肺蘇生を望まないという患者の意思(リビングウイル)が確認された場合、救急隊員が蘇生中止(差し控え)を許可する手順・運用方針を指す。ルールは整備されているのに運用が追いつかず、約7割もの人の希望がかなえられなかったという現実は重く受け止めなければならないだろう。
本人の書面と主治医へのリアルタイム確認の両方が必要という厳しい要件をもつ地域が多いためでもあるようだが、主治医と連絡がつかないとか、家族の意見が一致しないといったことは容易に想像できる。つまり、手順があるだけではダメで、主治医との連絡体制や、蘇生を差し控える要件の現実的な設計、隊員の訓練、そして現場が躊躇(ちゅうちょ)しないよう明確な法的保護も必要だ。
手順を適切に運用するための一丁目一番地が「人生会議」である。これはACP(アドバンス・ケア・プランニング)といい、患者と家族、医師、看護師やケアマネジャーら支援者が患者の意向や価値観について繰り返し話し合い、本人の意思決定を支援する一連のプロセスをいう。書面にすると固定されがちなリビングウイルと違い、本人や家族の状況に応じて随時更新し、多職種の専門性に基づいて本人の意思を確認できる。本人が判断能力を失っても、意思を継ぐ代理人も決められる。救急隊や救急医も、人生会議を経た本人の意思が確認できれば、法的なリスクを恐れず心肺蘇生を差し控えることができるだろう。
もちろん119番してもいい。ただ、そこから自動的に心肺蘇生に進むプロセスから、意思を表明した人たちを除外するシステムを全国的に整備する必要がある。
なお、神戸市消防局とMC協議会は3年前に「神戸市DNARプロトコル」を導入し、医師の到着時間に応じた引き継ぎ手順を細かく規定している。市医師会の公式サイトにチャートが掲載されているので参照していただきたい。
私は16年前、父を尊厳死で送った。延命措置については主治医と何度も話し合った。今思えば、あれは人生会議だった。後日、お父さまには多くを教えられましたと主治医に感謝の言葉をいただいたことが忘れられない。
自分はどうしたいか。人生最期の願いをかなえられるよう家族や医療介護の支援者らと十分に話し合っておくことをおすすめする。
(さいしょう・はづき=ノンフィクションライター)























