中国の習近平国家主席=(c)zixia/123RF.COM
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中国の反スパイ法は、2014年の施行以来、国際社会で議論の的となってきた。

2023年7月の改正により、同法の適用範囲が「国家の安全と利益に関わるデータ」に拡大され、曖昧な定義のもとで運用されることで、外国人に対する拘束リスクが高まっている。この法改正は、単なる国内の安全強化を超え、政治的戦略の一環として運用されていると解釈できる。

■日本人の拘束事例とその背景

中国の反スパイ法施行以降、少なくとも17人の日本人がスパイ行為の疑いで拘束された。

代表的な事例として、2023年3月、製薬大手アステラス製薬の日本人男性が中国での任期を終え帰国直前に拘束された事件が挙げられる。

この男性は、厳しい居住監視を経て同年10月に逮捕され、依然として拘束が続いている。また、2019年7月には湖南省で介護関連の仕事に従事していた50代の日本人男性が「国家安全に危害を加えた」として逮捕され、懲役12年の判決が確定した。

さらに、2024年12月には日本国内で尖閣諸島に関する情報を日本政府関係者に提供した日本人女性が上海で拘束された事例が報じられた。このケースは、反スパイ法の域外適用が明らかになった初の事例として注目を集めた。

これらの事例は、日本人と中国当局との間に具体的なスパイ行為の証拠が公開されないまま、拘束や実刑判決に至っている点で共通している。特に、日本人が多く拘束される背景には、日中間の領土問題や安全保障を巡る緊張関係が影響していると推測される。尖閣諸島問題や日本の対中政策が、中国当局による日本人への監視強化の動機となっている可能性は否定できない。

■米国人、韓国人、台湾人、オーストラリア人、カナダ人の拘束事例

反スパイ法の適用は日本人だけに限定されない。米国人、カナダ人、オーストラリア人、台湾人、韓国人も同法に基づく拘束の対象となっている。

例えば、米国人では2018年に実業家が国家安全を脅かした疑いで拘束されたケースが報じられたが、詳細は非公開のまま釈放された。また、米国のコンサルティング企業社員が企業調査中に拘束された例もあり、ビジネス活動への影響が顕著である。米国政府は透明な司法プロセスを求めてきたが、進展は限定的だ。

カナダ人では、2018年に元外交官マイケル・コブリグ氏と実業家マイケル・スペーバー氏がスパイ容疑で拘束された事件が国際的に注目された。このケースは、カナダでファーウェイ幹部が逮捕されたことへの報復と見られ、約3年間の拘束後、2021年に釈放された。

オーストラリア人では、2020年に作家ヤン・ヘンリー氏がスパイ容疑で拘束され、外交交渉の末に釈放された事例がある。韓国人では、2023年7月の改正反スパイ法施行後、半導体関連企業に勤務する50代男性が逮捕され、韓国メディアが「初の韓国人逮捕」と報じた。台湾人も同様に、ビジネスや学術交流の過程で拘束されるケースが散見される。

一方、ロシア人に関する具体的な拘束事例は、現時点で公開情報では確認されていない。ロシアと中国の戦略的パートナーシップを考慮すると、ロシア人に対する反スパイ法の適用は抑制されている可能性がある。この点は、中国が反スパイ法を地政学的な意図に基づいて選択的に運用していることを示唆する。

■ 地政学的文脈での運用とその意図

反スパイ法の曖昧な定義と広範な運用は、中国が地政学的戦略を遂行するツールとしてこの法律を利用していることを示している。

まず、米国やカナダ、韓国、オーストラリアといった西側諸国やその同盟国(台湾を含む)の市民が拘束されるケースが多い点は、中国がこれらの国々との外交的・経済的対立を背景に、反スパイ法を圧力手段として活用していることを示す。特に、カナダ人拘束がファーウェイ事件と連動していたように、外交摩擦や経済制裁への対抗措置として外国人を拘束する「人質外交」の側面が顕著である。

また、改正反スパイ法が「国家の安全と利益に関わるデータ」を対象に含めたことで、ビジネスや学術交流に従事する外国人が拘束されるリスクが増大した。半導体や先端技術に関わる韓国人や米国人の拘束事例は、中国が技術覇権を巡る競争の中で、情報収集や技術移転を厳しく監視する姿勢を強化していることを反映している。さらに、日本人女性の域外適用事例は、中国が自国領外での活動にも監視の網を広げ、地政学的ライバルに対する牽制を強めていることを示す。

ロシア人への適用が不明である点も、中国の地政学的計算を裏付ける。中国とロシアは「無限の友情」を標榜し、対西側で協調する関係にあるため、ロシア人への反スパイ法適用を控えることで、戦略的パートナーシップを維持する意図があると考えられる。この選択的運用は、反スパイ法が単なる法執行ではなく、地政学的意図に基づくツールであることを明確に示している。

■ 国際社会への影響と今後の課題

反スパイ法の運用は、国際的なビジネスや学術交流に深刻な影響を与えている。外国人留学生の激減や企業活動の萎縮が顕著である。外国企業は、中国での事業継続に慎重になり、投資意欲が低下している。国際社会からは、透明な司法プロセスと人権尊重を求める声が高まっているが、中国当局の対応は不透明なままだ。

日本を含む各国は、反スパイ法の恣意的運用に対抗するため、情報共有や外交交渉の強化が求められる。特に、日本政府は在外邦人の安全確保と早期解放に向けた具体的な戦略を構築する必要がある。反スパイ法の域外適用が進む中、国際協調による中国への圧力強化が、抑止力として機能する可能性がある。

◆和田大樹(わだ・だいじゅ)外交・安全保障研究者 株式会社 Strategic Intelligence 代表取締役 CEO、一般社団法人日本カウンターインテリジェンス協会理事、清和大学講師などを兼務。研究分野としては、国際政治学、安全保障論、国際テロリズム論、経済安全保障など。大学研究者である一方、実務家として海外に進出する企業向けに地政学・経済安全保障リスクのコンサルティング業務(情報提供、助言、セミナーなど)を行っている。