大阪市阿倍野区の「桃ヶ池公園」に、地中に埋まった鳥居があるという奇妙な噂がある。江戸時代に創建された「股ヶ池(ももがいけ)明神」の足元を調査する過程で、単なる都市伝説では片付けられない、聖徳太子の時代から続く壮大な伝承が眠っていた。
■公式の記録が見当たらない
桃ヶ池公園は、南北約450メートルの池を中心に約71,448平方メートル、甲子園球場の約1.8倍の広さがある。もともと古墳があって、今ある池は周濠の名残とされる。池に点々と島があり、中央部の住宅が建ち並ぶ島の外れに「股ヶ池明神」が鎮座している。ここは、NHK連続テレビ小説「てっぱん」(2010年9月27日~2011年4月)のロケ地にもなった。
「鳥居が地中に埋まっている」
いつの頃からか、そんな噂が囁かれている。現地を訪れると、神社の略記を記した看板の足元に、鳥居の「笠木」に酷似した石が路面から露出していた。敷石にしては形状が不自然で、中心部にはアンカーボルトのような金属が打ち込まれている。誰が、いつ、何のために置いたのか、謎は深まるばかり。
神社本庁に属していないと聞いたので、まずは公園事務所へ問い合わせたら「行政は神社を管理しない」との回答だった。では、地元の人に直接聞いてみようと、清掃ボランティアをしていた女性に尋ねてみたが、「意識したことがなかった。そんなのがあるんですか?」と驚いていた。
1956年発刊の『阿倍野区史』にも、手掛かりになりそうな記述は見当たらない。地元で懇意にしている知人の伝手をたどって紹介してもらった郷土史研究家は、その後なぜか連絡が取れなくなった。もしかして、何らかの見えない力が働いて邪魔されている…?
公式の記録もなく、阿倍野区史にも記載なく、行政機関でも把握していないため、今回の結論としては、残念ながら「鳥居が地中に埋まっている」噂の真相を解明するには至らなかった。だが、リサーチの過程で、池に伝わる極めて興味深い歴史が浮上したのでご紹介する。
■聖徳太子の使者が退治した「大蛇」の記憶
「桃ヶ池(ももがいけ)」は、今はひとつの池だが、かつては南北に分かれていた。大正時代に刊行された「東成郡誌」には、それぞれ「北股ヶ池」「南股ヶ池」と呼ばれていたことが記されている。現在の姿を航空写真で見てみると、池の中に大・中・小3つの島があるのが分かる。真ん中の島は住宅地、北側の島に広場があって、いずれにも人が出入りできる。南にある小さい島は橋すらなく、鬱蒼とした木々が茂っている。その佇まいは、見るからに何かいわくがありそうな雰囲気が漂う。
それもそのはずで、1701年(元禄14年)に刊行された「摂陽群談」によると、この島には飛鳥時代に退治された大蛇(おろち)の遺骸が埋葬されていると伝わる。その言い伝えが「股ヶ池明神」の略記と1956年刊行の「阿倍野区史」、そして「角川日本地名大辞典」に記載されている。
「摂陽群談」によれば、桃ヶ池には、胴回り3.6メートル長さ11メートルもある大蛇が棲んでいた。その大蛇を、聖徳太子の使者が退治した。脚の股まで池に浸かって大蛇と闘ったことから、「股ヶ池」とか「脛ヶ池」と表記されるようになったという。
大蛇の遺骸は放置されていたが、周辺の住民たちが怖がったため、池にある小島に埋葬された。この島は、今も「蛇島」と呼ばれている。
埋葬した後も怪異が続いたので、霊を鎮めるため蛇島に「大蛇塚」がつくられた。大蛇塚は昭和初期頃まで残っていたといわれるが、真偽は定かでない。だが、2013年に民間の研究団体が調査に入ったとき、明らかに人の手が加えられた痕跡があったそうだ。
聖徳太子の時代から時は移り、江戸時代中期、天明年間(1780年代)の頃。角田某という人物の夢に蚊龍(こうりゅう?/「蚊」の表記は略記のまま)が出てきて「池に祀ってほしい」と哀願された。これは神のお告げと思った角田は、大蛇塚から北へ1丁の場所に「股ヶ池明神」を創建したという。
1丁は109.09メートルだが、蛇島から「股ヶ池明神」まで、地図上の距離は約160メートルである。この約50メートルの誤差をどう解釈すべきか。あるいは別の場所を指しているのか、謎は尽きない。
近代の住宅開発で古墳は削平され、1933年には大阪市が「桃ヶ池公園」として整備した。「地中に埋まった鳥居」の正体は判明しなかったが、かといって「ならば、掘って確かめてみよう」という勇気はない(祟りがこわい?)。
結局のところ、ほぼ神話に近い時代の出来事は確かめようがない。しかし、今も「蛇島」へは簡単に立ち入れないまま残されていることが、この地における伝承の重みを物語っているのではないだろうか。学者ではない身としては、地域で語り継がれる古代ミステリーを楽しむのが健全なのかもしれない。
(まいどなニュース特約・平藤 清刀)























