サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂の三角屋根。再建を手がけた田窪氏が色をつけて焼いた特別なガラス瓦が敷き詰められている(画像提供:タカハシヤスコさん)
サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂の三角屋根。再建を手がけた田窪氏が色をつけて焼いた特別なガラス瓦が敷き詰められている(画像提供:タカハシヤスコさん)

「若いころに置いてきた夢を、30年越しに叶えました」

2026年2月、そんな言葉をつづったThreadsの投稿が、多くの人の心をつかみました。投稿したのは、手描き友禅と藍染めでハワイの風景を表現する染色作家、タカハシヤスコさん(作家名:equbo、@equbo)です。

20代のころ、ラジオで知ったフランスの礼拝堂再建プロジェクトに寄付し、門扉に名前が刻まれたタカハシさん。「いつか見に行きたい」と願いながらも、当時はパリから列車と車を乗り継いで約5、6時間かかる遠い場所にあり、その思いは胸の奥にしまわれていました。

それから約30年。ついにその地を訪れ、もうひとつの願いも実現します。そこには、どんな物語があったのでしょうかーー

■ラジオで知った礼拝堂再建プロジェクト

お母さんが和裁士だったこともあり、布に親しむ子ども時代を過ごしたタカハシさん。進学した美術系大学ではテキスタイルデザイン(染色)を専攻し、その後は内装メーカーに就職しました。礼拝堂のことを知ったのは、社会人3年目のころだったといいます。

「父が毎朝AMラジオを聴いていて、家族みんなで何となく耳にしていたんです。ある番組で、『美術家の田窪恭治さんが、フランスのサン・マルタン・ド・ミュー村にある廃墟化した礼拝堂の再建プロジェクトを立ち上げ、屋根に使う色ガラスの瓦の寄付を募っている。寄付した人の名前は礼拝堂の門扉に刻まれる』という話題が紹介されているのを耳にしました」

この礼拝堂は、正式には「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂」といい、現在は「林檎の礼拝堂」として知られています。1970年代から放置され、屋根が崩れ落ち、草木に覆われた廃墟でした。

田窪氏は1987年にこの礼拝堂と出会い、1989年から現地に移住。朽ちていく風景に現代の息吹を吹き込み、100年先へつなぐーー。ノルマンディー特産の「林檎」をモチーフに据え、再び人々の記憶に残る場所としてよみがえらせるため、当初は自費と手作業を中心に再建に着手。その後、寄付や支援を募りながら、1999年秋に完成へと導きました。

タカハシさんはラジオでこのプロジェクトを知り、「フランスの礼拝堂に自分の名前が残る」ということに直感的な魅力を感じたといいます。

「何だか素敵だなと思って、なけなしのボーナス2万円を寄付しました。当時は、何か深い考えがあって行動したというより、『フランスの礼拝堂に自分の名前が彫られるなんてロマンチックだな』という、少しミーハーな感覚でしたね。たぶん、社会人になって数年、ちょっと大人びたことをしてみたかったのかもしれません」

その一方で、「美大を卒業したものの、アートやデザインの道に進まなかったことへの引け目も少なからずあったかも…田窪先生の活動に関わることで、少しでも芸術の世界とつながっていたいという気持ちも抱いていたように思います」と振り返ります。

■「行くのは無理だ…」 パリから遠く離れた礼拝堂

1994年春、東京・新宿河田町のフジテレビ第一別館内にあった「フジテレビギャラリー」で、再建プロジェクトの中間報告を兼ねた展覧会「田窪恭治展 -サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクト 1989-1994」が開催されました。

タカハシさんはこの時、初めて礼拝堂の全容を詳しく知ることになります。

「展覧会のスタッフの方に礼拝堂の所在地を尋ねたところ、パリから鉄道で約2時間、さらに車で数時間かかる村にあると教わりました。片道だけでも相当な時間がかかる…『この先、礼拝堂へ行くのは無理だな』。そう思ったのを覚えています」

それでも、タカハシさんが気落ちすることはありませんでした。

「遠いフランスの地に、自分の名前が刻まれている礼拝堂がある。そう思うだけで心が満たされました」

タカハシさんは、礼拝堂への思いをそっと胸の内にしまったのです。

■仕事を失い、あらためて友禅と向き合った

その後、タカハシさんは大学時代の友人に誘われて友禅教室を訪れ、働きながら学び始めます。並行してフラダンス教室にも通い、自分ならではの表現を模索する中で、「ハワイの風景を友禅で表現する」というテーマへと行き着きました。

「友禅を学び始めてから8年後、講師の免状をいただくことができました。それからは仕事をしながら制作を続ける日々。当時はまだ、友禅は趣味の延長線上にある活動でした」

仕事と友禅。穏やかな日々を過ごしていたタカハシさんに、大きな転機が訪れます。

「コロナ禍になり、勤務先が事業を終えることになって仕事を失いました。今後の身の振りに思い悩むうちに、心の不調も抱えるようになって…大きな喪失感に包まれました」

そんな中で「自分の好きなことは何か」と問い直すようになったタカハシさんは、「もう一度、友禅制作としっかり向き合おう」と決めました。

「SNSなどで作品を発表するようになると、フォロワーや友人たちから応援の声が届くようになりました。それが大きな支えとなって、心の不調も徐々に和らいでいきました」

そうして、礼拝堂への思いを掘り起こすきっかけが訪れます。

■「今行かなければ」 礼拝堂への思いが再び動き出した

制作に打ち込む中で、「染色を通して社会と関わっていきたい」という思いを抱くようになったタカハシさんは、趣味起業コンサルタントの戸田充広さんと出会います。

「戸田さんのもとでマーケティングを学ぶ機会を得ました。さまざまなクリエイターやアーティストが集い、2023年春にニューヨーク、秋にパリのギャラリーでグループ展が開かれることになったんです」

タカハシさんはニューヨーク展には作品のみを出展。そしてパリ展を迎えるにあたり、ある思いが込み上げてきたといいます。

「パリ展では、現地で自分の作品を見届けたい。一念発起して、姪の成人式のために制作した振袖を自分の手で展示するため、渡仏を決意しました」

ところが、ヨーロッパも一人旅も初めて。不安は大きかったものの、「行く」と腹をくくったその瞬間、30年前の記憶がよみがえってきました。

「日本から行くとなるとハードルは高いけれど、パリからなら行けるかもしれない。何より、今行かなければ、一生行かないままになる、そう思いました」

この「今しかない」という直感が、礼拝堂への道筋をひらいていきました。

■「礼拝堂に行く」 現地在住の日本人女性との出会いで実現へ

礼拝堂を訪れる決意を固めたものの、具体的な行き方がわからず、計画はまだ夢のような状態…。そんな中、一筋の光が見えてきます。

「決めたら不思議なもので、数年前に礼拝堂の近くで通訳や観光案内をしている日本人女性の紹介記事を読んだことを思い出したんです。それが、小川裕子さんとの出会いでした」

小川さんはノルマンディー地方在住で、フランス労働省認定の観光カウンセラー免状を持ち、現地で旅のコーディネートをしています。タカハシさんは思い切って相談してみることにしました。

「事情を話したところ、小川さんが礼拝堂へのアテンドを申し出てくださいました。さらに、初めて海外へ一人旅をする私のために、空港での手続きやパリ市内のホテルへの移動方法、地下鉄の乗り方をはじめ、気候や服装、防犯に関するアドバイスまで、項目別に整理した資料を送ってくださいました」

小川さんの助けを得て、礼拝堂への訪問計画は着実に進み、2023年10月、タカハシさんはついにフランスへと旅立ちました。

■30年越しに、自分の名前を見つけた瞬間

タカハシさんのフランス滞在は5日間。そのあいだにサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を訪れる計画を立てました。当日、小川さんの資料をたよりにパリ駅へ向かい、小川さん夫妻が待つカーン駅へと出発します。列車が出発すると、すぐに風光明媚な田園風景へと移り変わり、車窓から眺める初めてのフランス郊外の景色に「本当に来たんだ」という実感がこみ上げてきます。

2時間ほど列車に揺られ、無事にカーン駅へ到着。小川夫妻が出迎えてくれました。

「まず、車で小川さん夫妻のご自宅へ向かい、昼食をごちそうになりました。そのあと、いよいよ礼拝堂へ。車での移動は思いのほか長距離でしたが、ご主人が快く運転を買って出てくださいました」

やがて、サン・マルタン・ド・ミュー村に到着。タカハシさんは、ついに礼拝堂へとたどり着きました。

小川さんは村の人々とも面識があり、事前にタカハシさんの訪問とその目的を伝えてくれていたといいます。

「私が礼拝堂の寄進者であること、30年ぶりに村を訪れることをあらかじめ説明してくださっていたんです。そのため、とても温かく迎えてくださいました。さらに、礼拝堂の門扉に刻まれた私の名前の位置もあらかじめ探してくださっていて…温かいお心遣いがとてもありがたかったです」

礼拝堂を管理している村の人から「実際に寄付した人がここに来たのは、あなたが初めて」と言われたタカハシさん。ついに門扉へと歩みを進め、名前を確認するとーーそこには確かにタカハシさんの名前が刻まれていました。

「扉に“YASUKO”という自分の名前を見つけた瞬間、『本当に存在していたんだ…』と、すぐには実感が湧かず、どこか不思議な感覚でした」

少し落ち着いてくると、20代のころの自分のことが次々と思い出されました。

「当時は夢や目標もはっきりせず、何かに挑戦する勇気も持てませんでした。周りの友人がそれぞれの道を進む中で、自分だけが取り残されているように感じていたんです。そんな過去の自分に、『あなたがあの時寄付してくれたから、今こんな特別な時間を生きられているよ。ありがとう』と、心の中で語りかけました」

そして、“夢”はまだ終わりません。もうひとつ、タカハシさんには叶えたい願いがありました。

■礼拝堂で叶えた、もう一つの夢

タカハシさんには、この訪問でもう一つ実現したい思いがありました。それは、「礼拝堂に自分の作品を展示し、写真に残すこと」でした。

「小川さんには、渡航前に展示のことも相談し、賛同していただきました。そして、礼拝堂の管理責任者に許可を取ってくださったんです。当日は、ご主人が友禅のタペストリーを天井から吊るして展示するためのロープやポールまで用意してくださり、お二人に手伝っていただいて設営することができました」

田窪氏によって礼拝堂の白い壁に描かれた林檎の壁画。そこに、タカハシさんが手がけた藍を基調に山や滝、花々を描いた友禅作品を掲げて撮影しました。まさに、もうひとつの思いが形になった瞬間でした。

この展示の許可が下りたのは、渡仏の直前だったといいます。そのため村の人々に広く知らせることはできず、展示を見届けたのは鍵を管理する女性と小川さん夫妻のみでした。

それでも、タカハシさんの心は静かに満たされていました。

「私が作品を展示したいと思ったのは、多くの人に見てもらうためというより、自分が歩んできた友禅の道を一つの形として礼拝堂に残したかったからでした。礼拝堂を再生し、人々に喜びをもたらした田窪先生の活動に重ねるように、私も染色を通して誰かの心を明るくすることができたら-そんな願いが、ずっと心の奥にあったように思います。礼拝堂に掲げられた自分の作品を見たとき、30年間抱えていた宿題をようやく提出できたような、静かな達成感に包まれました」

こうして思いを実現したタカハシさんは、「小川さん夫妻の支えがなければ、30年越しの願いが叶うことはありませんでした。心から感謝しています」と語ります。

■「決めると現実が動き始める」タカハシさんが伝えたいこと

礼拝堂を訪れてから約2年後の2026年2月。タカハシさんは、六本木のギャラリー「KOTARO NUKAGA」で開催されたグループ展に田窪氏が作品を出展していることを知り、会場へ足を運びました。

「田窪先生に、礼拝堂訪問がかなった感謝をお伝えしたくて手紙を書いて伺いました。あいにく先生はご不在でしたが、スタッフの方が手紙を預かってくださり、寄付のことや現地を訪れたお話をすると、『先生にも伝えます。きっと喜ばれると思います』と言ってくださいました。この先、直接お目にかかる機会があるかはわかりませんが、先生への感謝と尊敬の気持ちは変わりません」

今回の体験をSNSに綴ったところ、想像以上に多くの共感が集まりました。タカハシさんは「私自身が励まされました」と振り返ります。

「今回の旅は、昔の自分が心に残していた忘れ物を受け取りに行ったような感覚でした。少し気恥ずかしさもありますが、それ以上に大切な気づきを得ることができました。それは、『無理だと思い込んでいたことでも、やると決めると現実が動き始める』ということです」

最後に、自身の体験を通して伝えたいことを尋ねると、こう答えてくれました。

「時間は、想像以上に早く過ぎていきます。来年も生きている保証は誰にもない。だからこそ、自分の人生で大切だと感じることは、ぜひ機会をつくって行動してほしいと思います」

20代の自分と出会い直したタカハシさん。その歩みはこれからも、新たな表現の場へと続いていくことでしょう。

(まいどなニュース特約・梨木 香奈)