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(14)政府初動 即応効果 現地に届かず
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 首相官邸の一室。二十四時間体制の「危機管理センター」は、即座にフル回転を始めた。十月二十三日午後五時五十六分、新潟県中越地震が発生。政府の対策室が設置されたのは、わずか四分後だった。

 「緊急参集チーム」のメンバーは、続々と集まった。内閣官房の幹部と、関係省庁の局長級たちだ。原則として震度6弱以上で自動的に招集され、三十分以内の参集を求められる。

 「先遣隊を出そう」

 絶え間なく電話が鳴る部屋で、内閣府防災担当の柴田高博政策統括官が切り出した。旧建設省から兵庫県に出向し、県都市住宅部長として阪神・淡路大震災を経験した人物だ。

 柴田統括官は、隣にいた防衛庁の大古和雄運用局長に声をかけた。「車じゃ駄目だ。ヘリを出してもらえないか」。千葉県の駐屯地から、官邸まで約三キロの市ヶ谷駐屯地にヘリが移された。

 午後九時十四分、関係省庁の防災担当十一人による先遣隊が出発。新潟県庁に午後十一時五分、政府の現地連絡調整室を設置した。阪神・淡路の政府現地対策本部は五日後の発足だった。

 十年前。村山富市首相はテレビで地震の発生を知った。五十嵐広三官房長官への一報は一時間以上も遅れた。非常災害対策本部が会合を開いたのは、発生から五時間半を過ぎていた。会合後の記者会見資料には、「死者一人」と記されていた。

 少なくとも、当時と比べれば、政府の初動は格段に早くなった。

 中越地震の発生直後、小泉純一郎首相は東京・六本木の映画館にいた。秘書官から一報を受け、官邸と協議した上での判断だった。

 「総理も私も、(発生初日は)連絡しながら待機していた。誤った判断とは思っていない」と、細田博之官房長官。

 「(センターには)危機管理のプロが集まっているので、この人たちにまずやってもらうのが大切だ」。阪神・淡路との災害規模の違いもあったが、危機管理体制の強化を図ったという自信が透けて見える言葉だった。

 「至れり尽くせり」。林田彪内閣府副大臣は十一月十一日、衆院災害対策特別委で、そう言って胸を張った。

 新潟県庁に国の現地連絡調整室が設置されたころ、山古志村は土砂崩れで道路網が寸断されていた。長島忠美村長は、携帯電話がつながる場所を求めて高台に上った。近隣町村長や県庁にかけたが無理だった。

 ラジオは絶え間なく地震のニュースを伝えていたが、山古志村の名は出ない。「孤立した」と感じた。県庁と連絡が取れたのは、発生から八時間後だった。

 震度7を記録した川口町では被害を受けた役場庁舎内に入れなくなり、町の被害把握が遅れた。県が同町の惨状を認識できたのは数日後だった。

 「県として、市町村から国へ、被害状況や被災者のニーズを吸い上げていく力が足りなかった」。新潟県危機管理防災課の飯沼克英課長は振り返る。対して、民間非営利法人「危機管理対策機構」(東京)の細坪信二事務局長は「国は危機管理の方向性を示し、自治体を後方支援すべき」と主張する。

 政府の危機管理体制は増強され、マニュアル通り起動したという。しかし、最も助けを必要とした被災地に、そのメリットは届いていなかった。

2004/12/6
 

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