新潟県庁三階の知事執務室とドア一枚でつながる応接室。県職員さえ気軽に立ち寄れない「本丸」が、兵庫県からの派遣チームに提供された。
両県の間に、災害応援などの協定はなかった。それでも、兵庫の動きは素早かった。
中越地震から一夜明けた十月二十四日朝、先遣隊として「人と防災未来センター」の研究員を派遣した。四日前には台風23号被害に見舞われ、その対応に追われる最中のことだった。
災害対策会議の場にも、兵庫の専用席が設けられた。政府の指示で現地入りした内閣府の原田正司審議官は「新潟だけでなく、国にも大震災の経験者は少ない。生の言葉はどんな詳細な資料より確実に伝わる」と期待した。
兵庫の発言は影響力が大きかった。
県庁所在地の新潟市は被害がなく、県庁内の大半で淡々と通常業務が行われていた。十年前、混乱を極めた兵庫とは決定的に違った。
「緊迫感に欠ける」。派遣チームが苦言をぶつけた。率直な“部外者”の指摘に戸惑う職員もいた。
「情報は待つのでなく取りにいくもの」。派遣チームが避難所の実態把握の遅れを指摘すると、泉田裕彦知事はその場で情報収集の徹底を指示した。数日後、新潟県の管理職が避難所の聞き取り調査に総動員された。
「仮設住宅は選択肢の一つ。建設を急ぎすぎない方がいい」。人と防災未来センター研究員の助言は、「仮設の費用を自宅修理に回す方が合理的」とする泉田知事の考えと共鳴した。だが、目前に避難者を抱える市町村では「冬までに仮設住宅を確保するのが先決」と、知事の真意を問う意見も出た。
「兵庫が新潟に指示している、と誤解されているおそれがある」
一週間後、新潟入りした兵庫県生活企画局の中瀬憲一局長は、新潟県庁内のわだかまりを察し、あえて、チームのメンバーに告げた。
間合いの取り方は難しかった。それでも、十年前の教訓を伝えたかった。
「悔しい思いをしたからこそ、われわれは失敗を話す。そこから新しい災害対応モデルを作り出してほしい」
中越地震は、他県が被災自治体の災害対応に深く参画した異例のケースといえる。
泉田知事は、発生三日目に就任したばかりだった。災対会議で「阪神・淡路大震災に学べ」と強調した。行き止まり、遠回りを繰り返した阪神・淡路。その足跡は、新潟県にとって未知の災害対応に、近道を示す「道標(しるべ)」でもあった。
「生かせる教訓を選択し、被災者を救う責任はわれわれにある」と新潟県幹部。派遣チームの発言に「当初は反発もあった」というが、「自分のやるべきことが定まると、経験の貴重さが分かった」という。
兵庫県の斎藤富雄副知事は、自負と自戒を込めて言う。「阪神・淡路ほど分析されている災害はない。成功も失敗も、その後のあらゆる災害対応の物差しになる。物差しは常に磨いておかなければ」
災害は、地域や時代に応じて新たな問いを突き付ける。物差しが示す「解」は一つではない。
2004/12/5