創造的復興。
昨年11月、交通事故に遭い不慮の死を遂げた前兵庫県知事、貝原俊民=当時(81)=が阪神・淡路大震災の直後に掲げた復興の理念である。
それから20年。その評価は分かれる。「街並みの復興は早かった」との受け止めがある。成長志向の計画は被災者間の格差を拡大し、「復興災害を招いた」とする厳しい指摘もある。
貝原自身はどのように総括していたのか。
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2011年4月、首相官邸。東日本大震災の復興構想会議。議長の五百旗頭真(いおきべまこと)(71)=ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長=から意見を求められた貝原は「私どもの体験が少しでも役に立てばと参りました」と前置きし、自ら掲げた理念を定義した。
まず、破壊された都市機能の復旧。次に、失われた機能をよりよくする再生的な復興。その上で、近代都市文明の脆弱(ぜいじゃく)性を克服した新しい分権社会を目指した、と。
「そういう意味で、阪神・淡路は本当の創造的復興ではなかったと思います」
五百旗頭は、その率直さに息をのんだ。
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貝原が定義する意味での創造的復興は、なぜ“挫折”したのか。根源をたどると、幻に終わった二つの法案に行き着く。
「中央集権制限法案」と「阪神・淡路震災復興特別措置法案」である。
貝原の側近で、長く政策秘書を務めた兵庫教育大社会連携センター長の井筒紳一郎(68)は貝原の口癖を思い出す。
「成長社会は官主導でいい。だが、成熟社会の主役は民と地方だ」。その枠組みを法律で決めてしまおう。
国に一石を投じるつもりで、貝原らが1993年に起草した中央集権制限法案は相手にされなかった。その2年後、大震災が起きる。
1枚のメモが残る。
被災者が避難所にあふれ、復旧の見通しすら立っていなかった2月上旬。貝原がワープロをたたき、数人の県幹部に配った。こう書いてある。
「この復興は被災地だけの問題ではなく、成熟社会の質的な転換を先導する創造的復興でなくてはならない。その行く末は、21世紀の日本のあり方をも左右する課題だ」
この考えに基づき、井筒に「特措法」の法案づくりの特命が下る。13日後、素案ができた。
肝はこうだ。兵庫県が被災市町の意見を聴いて10年間の復興計画を立てる。国は長期的に財源を保障し、規制緩和で計画を支える。権限と財源の大胆な移譲-。
幹部たちが動いた。
だが、中央官庁で根回しを始めてすぐ、大蔵省や通産省(いずれも当時)から冷たい反応が届く。
「法律をつくるのは国の仕事だ。兵庫が勝手に動けば、財政支援の妨げになる」。そう耳打ちされた幹部もいる。
兵庫包囲網が敷かれ、特措法案は県庁内でタブーになった。
「特措法ができていれば日本の災害法制にとって画期的だったが、誰も本気で動いてくれなかった。あの法案が消えたとき、兵庫が目指した創造的復興は息の根を止められたのかもしれない」
井筒は悔しそうに述懐した。
=敬称略=
(木村信行)
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