災の国~問われる「覚悟」~
前兵庫県知事、貝原俊民(故人)が目指した「創造的復興」はなぜ成し遂げられなかったのか。
決定的な役割を果たした一言がある。いつのころからか、それは「後藤田ドクトリン」と呼ばれるようになる。
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1995年2月下旬、東京。阪神・淡路復興委員会の第2回会合。
経団連前会長の平岩外四(故人)らそうそうたる顔触れが並ぶ。委員長は元国土庁事務次官の下河辺淳(91)。被災地の思いを国につなぐ首相の諮問機関である。
冒頭、特別顧問の元副総理、後藤田正晴(故人)が口を開く。「計画は物理的、社会的、財政的にぎりぎりの線でやってほしい。それを超すと理想倒れになる」「政府としては個人の損失に直接補償しない建前だ」
すかさず、下河辺が引き取る。「重要な話で議論の軸になると思う」
復興は今ある法制度でできる。それ以上を求めるなら地元の金でやってほしい-。兵庫が求める復興に「たが」がはめられた瞬間だった。
東日本大震災で政府の復興構想会議議長を務めた五百旗頭真(いおきべまこと)(71)は言う。
「当時の後藤田さんは政治と官僚を束ねる、まさに日本政治の象徴。あの人に駄目だと言われたら、手も足も出ない」
以後、復興は既存の法律を基本に進んでいく。
貝原が交通事故で亡くなる前夜、五百旗頭は貝原と後藤田ドクトリンについて話していた。
「改良復旧までは良かった。だが、その先になると、中央省庁の壁が実質的に、厳然とあったよ」
貝原はそう言ったという。
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阪神・淡路大震災は高齢化した成熟社会を直撃した人類史上初の大災害だった。25万世帯が家を失い、生活再建が最大の課題となる中、それでも被災地だからこそ描いた夢があった。
民間の立場で、その構想と発信の役割を担ったのが「ひょうご創生研究会」である。
関西の大学教授や文化人ら44人が地震の5カ月後、10項目105施策の提言を出した。そのシンボルが、倒壊した阪神高速神戸線の高架廃止と地下化だった。
提言のうち67施策は行政の復興計画に取り入れられた。だが、神戸港の規制を大幅緩和するエンタープライズゾーン、パリを参考にした阪神地区の大学街化など、自由かつ大胆な提案ほど実現しなかった。
創生研究会を束ねた元神戸大学長、新野幸次郎(89)は振り返る。
「実現には財政の裏付けがいる。国と被災地は夢を共有できなかった。私たちの力不足もあった」
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創造的復興とは何か。災害大国であることを自覚し、50年、100年先も安心して暮らせる都市の具体的な先例を示すことだったのではないか。
阪神・淡路の復興を見続けてきた神戸大名誉教授、室崎益輝(よしてる)(70)は言う。
「当初は、ここから新たな都市文明を起こそうという熱気があった。だが1、2年であきらめムードが広がった。私たちは夢を見たことすら、忘れていないか」
そして、続ける。
「官治集権と一極集中は、この20年でさらに進んだ。東北の復興を見れば、それは明らかだ」=敬称略=
(木村信行)
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