連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

災の国~問われる「覚悟」~

  • 印刷
津波にのまれた東日本大震災の被災地。被災者が救援を待つ一方で、政府は機能不全に陥っていた=2011年3月12日午前10時20分、宮城県気仙沼市
拡大

津波にのまれた東日本大震災の被災地。被災者が救援を待つ一方で、政府は機能不全に陥っていた=2011年3月12日午前10時20分、宮城県気仙沼市

津波にのまれた東日本大震災の被災地。被災者が救援を待つ一方で、政府は機能不全に陥っていた=2011年3月12日午前10時20分、宮城県気仙沼市

津波にのまれた東日本大震災の被災地。被災者が救援を待つ一方で、政府は機能不全に陥っていた=2011年3月12日午前10時20分、宮城県気仙沼市

 阪神・淡路大震災当時の首相、村山富市(90)を大分市の自宅に訪ねた。昨年11月のことだ。

 「初動の遅れは弁明の余地がない」

 村山はそう言い切り、20年前を振り返った。

 「担当の国土庁も、地震が起きてから慌てて出勤するような体制だった」

 秘書官から報告の電話を受けたのは、地震発生から2時間近くたった1月17日午前7時半ごろ。「大きな被害になりそうだ」という漠然とした内容だった。被害の甚大さを明確に認識したのは、発生から6時間以上経過した正午ごろだ。

 「死者203人」

 政府与党首脳連絡会議で被害を聞かされ、「えーっ」と大きな声を上げた。

     ■

 2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災が起きたとき、記者は首相官邸(東京都千代田区)そばの建物にいた。

 震度5強。情報を求めて官邸に急いだ。阪神・淡路を教訓に、官邸は24時間体制となり、地下に各省庁の局長らが集まる「危機管理センター」が設けられた。政治家も官僚もすぐに動きだせる平日の昼間。態勢は整えやすいはずだった。

 しかし、同センター内は安全保障上の理由から携帯電話が使えなかった。地震発生から約3時間後、官房長官(当時)の枝野幸男(50)は会見場で「首都圏の皆さまに」と切り出し、「無理に帰宅をしないでほしい」と呼び掛けた。巨大津波に襲われた東北の被害把握は遅々として進まない。生死の境をさまよう人々への想像力と対応力が、政府には決定的に欠けていた。

 翌12日早朝、官邸ロビーに現れた首相(当時)菅直人(68)の表情は硬く、蒼白(そうはく)だった。周囲の反対を押し切って東京電力福島第1原発の視察を決めた菅は、ヘリコプターで屋上から飛び立った。朝もやの中、この国のトップはしばし、中枢から消えた。

     ■

 阪神・淡路大震災から20年。被災地の人々は、地をはうような努力で復興の道のりを歩んできた。家族や住まいを失い、地域のつながりを絶たれる中で、生活を立て直し、心身の痛みに向き合ってきた。

 次につながる仕組みも生み出した。被災世帯に現金を支給する「被災者生活再建支援法」は市民の運動で実現し、災害法制を大きく前進させた。兵庫県独自の住宅再建共済制度も、今年で創設10年になる。

 募金で建てられた遺児の支援拠点「神戸レインボーハウス」や、防災を専門に学ぶ県立舞子高校の環境防災科。全国初の多くの試みが、その後の災害の被災地にも受け継がれている。

 だが、その努力は国の血肉になっていない。思想として根付いていない。

 日本は他の国とは違う。

 世界の地震の約1割は、日本とその周辺で起きている。スイスの再保険会社が世界600以上の都市圏で自然災害の被害を受ける人口を推計し、公表した危険度は東京・横浜が1位。大阪・神戸も4位に入る。

 この国は「災害と生きる覚悟」を土台に地域や国をつくり、人材を育てなければならない宿命にある。

 しかし今、防災を担当する内閣府の職員はわずか90人余りで、短期間で入れ替わっていく。防災担当相は2001年の初任命から14年間で延べ19人目。平均在任期間は1年に満たない。

 国の真ん中に、災害を考え続ける人間がいない。

 阪神・淡路で亡くなった6434人の魂は、20年間問い続けている。「なぜ、私たちは生きられなかったのか」。生き続ける者は、行動で応えなければならない。「1・17」を永遠の原点として。=敬称略=

(磯辺康子)

=おわり=

2015/1/15

天気(12月3日)

  • 15℃
  • ---℃
  • 20%

  • 13℃
  • ---℃
  • 50%

  • 16℃
  • ---℃
  • 10%

  • 15℃
  • ---℃
  • 30%

お知らせ