「なぜ、うちの地域が区画整理の対象とされたのか、今でも理解できない」
昨年11月、阪神・淡路大震災の復興に関わってきた都市計画の専門家らが神戸市内で開いた「復興市民まちづくり」の研究会。復興土地区画整理事業の終了で10年前に解散した「芦屋西部地区まち再興協議会」の元事務局長、森圭一(67)=芦屋市川西町=は、消えない疑問を口にした。
同市津知町など被害が大きかった約20ヘクタールを対象とした芦屋西部地区。住民が避難していた公園に市職員が説明に訪れたのは、地震から約1カ月後だった。
同地区の一部は戦災復興の区画整理を実施済みで、住民は猛反発した。自宅が全壊し母を亡くした森は、反対運動の先頭に立った。大学教授らの支援を得てアンケートや集会を重ね、独自の計画案を提示。震災から2年半後、住民投票で事業を受け入れたが、対案を示し、行政と交渉を重ねる過程はまさに「市民まちづくり」の在り方を示した。
それでも、森は区画整理に納得していない。
「市が国からインフラ整備の予算をもらうための事業だ。被災した住民の弱みにつけ込むような手法で、今の時代には合わない」
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戦後日本は、行政がまちの姿を決める「都市計画」が着々と進められた。
山を切り開き、海を埋め立てて、ニュータウンを造る。公共施設や道路を整備する。人を呼び込む「入れ物」を用意することが、自治体の仕事だった。
一方で、「まちづくり」は入れ物の中でどう暮らすかを考える。動きが広まったのは1980年代だ。
その先進地が神戸市長田区の南東部、真野地区だった。60年代の公害追放運動を機に緑化推進、高齢者支援の活動が広がり、80年には住民組織が「まちづくり構想」を決定。住宅と工場地区の分離など20年後の将来像を示し、長屋の共同建て替えなどに取り組んだ。
「まちの環境改善は市にとっても重要な課題。モデルケースをつくりたかったのでは」と真野地区まちづくり推進会事務局次長の清水光久(74)。市は81年、住民組織との協定手続きなどを定める全国初の「まちづくり条例」を制定した。
時に「神戸市の広告塔」とも言われる同地区だが、住民の長年の積み重ねは震災時の助け合いを生んだ。約2割の住宅が全壊し、火災も発生したが、住民や地区内の企業の自衛消防隊が延焼を阻止した。
区画整理の対象から外れた同地区は、震災前の下町の風情を残す。
清水は言う。「まちとは建物も人も生活も含めたもの。真野は、道路も狭くて震災前と変わらないが、それはある意味で誇りだ」
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阪神・淡路から20年を経ても、東日本大震災の被災地では、既存の都市計画の手法で巨大な「入れ物造り」が進む。教訓は生かされたとはいえない。
復興市民まちづくりの研究会を企画したNPO法人神戸まちづくり研究所(同市中央区)理事長の小林郁雄(70)は言う。
「都市計画は人口が増え、経済が成長する時代しか機能しない。今は『こういう街にしたい』という住民の思いを重視すべきだが、制度が追いついていない」
東日本大震災では、現在進行形の課題である。そして、人口減少や高齢化に直面する全てのまちが今すぐ向き合わなければ、次の大災害には間に合わない。
=敬称略=
(磯辺康子)
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