針路21

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 2016年10月末、私たちの劇団は久しぶりの韓国公演の準備のためソウルに滞在していた。

 いわゆる「崔順実(チェスンシル)ゲート事件」の時期だ。ソウル市街は連日、100万人規模のデモが行われ、翌月には朴槿恵(パククネ)大統領の支持率は5%にまで落ちた。

 大統領がシャーマンに操られていたという信じがたい事実を前に、韓国の友人たちは会う人ごとに「民主主義国家として恥ずかしい」と口にした。乗客乗員299人の死者を出したセウォル号沈没事件(14年)以来、鬱積(うっせき)していた国民の不満が一挙に噴き出し、翌春には韓国史上初めての大統領弾劾が成立する。

 この時期、朴政権のさまざまな闇が暴露されるなかで浮上したのが「ブラックリスト問題」だった。9千人近い文化人がリストアップされ、国家からの助成金が停止された。中には、のちに韓国人初のアカデミー賞監督賞に輝いたボン・ジュノ氏や、その作品『パラサイト』の主演俳優ソン・ガンホら韓流スターたちも名前を連ねていた。

 そして何の間違いか、外国人ではただ一人、私の名前も入っていた。

■恣意性にこそ権力の不気味さ

 当時、韓国の演劇界では、数人集まれば、このリストの話題で持ちきりだった。名前が載っていなかったアーティストが「そんなはずはない」と逆に抗議をしたり、若手が「自分も載せてくれ」と冗談交じりにつぶやいたりもした。

 私の件は韓国のテレビでも取り上げられ話題となった。知人の話では韓国文化観光スポーツ部(文部科学省にあたる)の役人が「平田さんは韓国政府に対して批判的な発言はしていないし、発覚したら外交問題になる」と懸念を表明したが、大統領府がはっきりと拒絶の意思を示したらしい。私にはまったく身に覚えがないのだが。

 この問題は長く尾を引いた。朴政権が倒れて1年後の2018年4月、韓国の政府機関である映画振興委員会の委員長が一連の経緯について謝罪した。政権交代が自浄作用を示す一例とも言えよう。

 去る4月17日と18日、第187回日本学術会議年次総会が東京で開催された。新学期で豊岡の大学を離れられなかった私は、オンラインでの参加となった。

 最大の話題は政府が提出を予定していた「日本学術会議法改正案」を巡っての対応だった。

 20年の菅義偉前首相によるいわゆる任命拒否問題に端を発するさまざまな議論は、この3年間、私たち学術会議メンバーの頭上に垂れ込める暗雲のようになってきた。

 今回の「改正案」の目玉は、会員の選考過程において第三者機関を設ける点にある。本会議に出席した政府側は、選考諮問委員会の委員は学術会議の会長が任命するとして「政府が会員選考に介入するわけではない」という点を強調したが、これは無理筋だろう。なにしろ、かつて国会で「政府は学術会議の人選に関与しない」と言ってきたにもかかわらず、一切の説明なしに6人の任命を拒否したのだから。

 総会に先立ち、国内のノーベル賞受賞者8人が政府に対し憂慮の声明を出し、海外の受賞者からも賛同の声が寄せられた。「私たち61人は、8人の日本人科学者が表明した憂慮と希望を共有する。科学は人類の崇高で知的な努力であり、その発展が人類の進歩と幸福の実現に不可欠。日本はアカデミアを通じて人類に貢献する国で、世界に知的存在感を示すだろう」

 日本は現在「民主主義国家として恥ずかしい」状態にないか?

 学術会議は政府に対し、改正案の国会提出を思いとどまり、学術会議の在り方を含め日本の学術体制全般にわたる包括的・抜本的な見直しを行うための開かれた協議の場を設けることを勧告した。「勧告」は学術会議が政府に対して持つ機能としてはもっとも強い意思表示の形式だ。

 この3年間、私たちはある種の虚無感、絶望感にさいなまれてきた。どんな要望や声明を出そうとも、菅前首相は任命拒否の理由を「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保する観点から判断した」と繰り返すばかりだったし、岸田政権も、この問題は解決済みの一点張りだった。「勧告」を出しても政府の方針は変わらないのではないかとあきらめムードの会員も正直いたと思う。そうであっても学者は、自らが正しいと思うことを主張し続けなければならない。「それでも地球は回っている」と語り続けるのが科学者の役割だから。

 予想に反してと言うと語弊があるが、政府は「改正案」の国会提出を断念した。与党や政府関係者の中にも、任命拒否問題を前政権からの負の遺産と考える良心的な人々がいたということだろうか。

 楽観は許されないが、ともかく対話の道は開かれた。

 さて私は安倍政権、菅政権にはずいぶん苦言を呈してきたが、それでも3年前から学術会議に名を連ねている。韓国ではブラックリストに載り、日本では任命を拒否されなかった。理由はわからない。この恣意(しい)性にこそ、権力の持つ不気味さがある。

(ひらた・おりざ=劇作家、芸術文化観光専門職大学学長)

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