太平洋戦争末期の姫路空襲を少年時代に経験し、兵庫県姫路市や西播磨の学校などで30年以上語り部活動を続ける黒田権大(ごんだい)さん(92)=姫路市=が、神戸新聞社会賞に決まった。重ねた講演は300回以上。「戦争は人類最大の罪悪」との信念から、平和への思いを語り続ける黒田さんにいま一度、戦争体験と戦後の歩みを聞いた。
黒田さんは軍国一色の教育を受け、「兵隊に敬礼されるような将校になりたい」と夢見ていたという。だが、16歳のときに空襲に遭い、祖父母を亡くしてから考えが変わった。「街を焼かれ、家族を亡くして初めて、『こんな無謀な戦争はやめた方がいい』と思うようになった」と振り返る。
「ウーーー!」。1945年7月3日の深夜、寝静まった姫路の街に警報が鳴り響いた。約2週間前の6月22日にも、姫路城の東にある川西航空機姫路製作所を標的に空襲があり、341人が犠牲になったばかり。住民は「また空襲が来る」とうわさしていた。
当時、同市東延末の自宅に母、祖父母といた。逃げようとしたが、寝たきりだった祖母は「どこにおっても死ぬときは死ぬんや。私は離れたくない」と言って動こうとしない。母に「権大、ひとりで逃げなさい」と言われ、家を飛び出した。
姫路駅の方角を見ると、すでに火で真っ赤に染まっている。手柄山へ逃げようとしたが、間に合わないと思い、家から80メートルほど先の田んぼの水路に身を隠した。程なく焼夷弾(しょういだん)が「シュシュシュ シュシュシュ」と音を立てて降り、民家や田んぼに突き刺さった。
自宅には隣家の火が燃え移り、バケツリレーで消火を試みたが台所を残して全焼した。「祖母を掘り起こしたら真っ黒だった。大やけどを負った祖父も、数日後に息を引き取った」
黒田さんは、中国大陸に出征していた実兄も終戦間際に失っている。終戦後に届いた骨つぼに入っていたのは、「黒田保(たもつ) 野戦病院で死亡せり」と書かれた紙きれ一枚だけだった。
◆
神戸大を卒業後、高校教師となったが、積極的に戦争体験を話すことはなかったという。姫路市戦災遺族会の会長だった1990年、周囲の勧めで空襲の語り部を始めた。つらい記憶を思い出すことに、最初は気が進まなかったという。
「なぜ空襲を受けたのか」「戦争で一番苦しかったことは」。語るたびに小中学生は熱心に質問してきた。真剣な表情を見るうち、次第に「伝えるべきだ」という思いに駆られるようになった。
空襲の被害だけでなく、日本軍の加害の歴史も伝えている。「アジアを植民地支配し、多くの人命を奪った」。念頭には一人の元兵士が思い浮かぶ。隊長の命令で十数人の中国人を殺したことに苦しみ続け、西播地域から姫路市の慰霊祭に毎年足を運んだ。男性の深い悔いを、黒田さんは代弁している。
毎年、夏が近づくと「そろそろだな」と思う。戦争が「過去の歴史」になってしまわないか、時々心配になる。若い世代が戦争体験を語り継ぐのは難しい。だからこそ、伝えなければならないことがある。「力が、いや、命が続く限り語り部を続けたい。それが私の使命です」(安藤真子)

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