姫路

  • 印刷
阿部尚子さんが爆心地から2・8キロで被爆したことを示す被爆者健康手帳=姫路市内
拡大
阿部尚子さんが爆心地から2・8キロで被爆したことを示す被爆者健康手帳=姫路市内
母親が広島で被爆した井上千草さん=姫路市内
拡大
母親が広島で被爆した井上千草さん=姫路市内

 広島に原爆が投下されてから6日で丸76年となる。兵庫県姫路市の被爆者団体は既に解散し、市平和資料館(同市西延末)での被爆体験の講話会も新型コロナウイルス禍で2年続けて中止となった。全国の被爆者の平均年齢は83・94歳。記憶を継承する重要性はますます高まる。姫路に暮らす被爆者と2世の体験に耳を傾けた。(安藤真子)

 姫路市に住む被爆者は2021年4月時点で127人。市の被爆者団体で解散まで役員を務めた阿部尚子(たかこ)さん(81)は「当時の役員のほとんどが亡くなった。活動するエネルギーがないのが現状」と話す。

 阿部さんは1945年8月6日朝、疎開先の広島市牛田町(現同市東区牛田早稲田)で被爆した。爆心地からは約2・8キロ。祖母が小川で洗濯するのを、2歳下の妹とそばで見ていた。B29爆撃機の姿や閃光(せんこう)は記憶になく、気付いた時には爆風で川に投げ出されていた。幸いけがはなかったが、「背中の皮膚がずるずるになった人たち」が水を求めて次々と逃げてきたのを覚えている。

 爆心地から約800メートルにあった福屋百貨店の軍需監理部に勤めていた母親は、屋内で被爆。奇跡的にほぼ無傷だったが、約2年後に突然、歯が全て抜けた。当時はまだ33歳。阿部さんは「被爆の影響」と考えている。

 放射線の恐怖は常につきまとった。終戦の翌年、小学校へ入学。「朝礼のたびに必ず誰かが倒れた」ことは忘れられない。白血病や貧血が多く、「いつ自分の身に原爆の影響が出るかと不安だった」という。

 その後、健康面での問題はなく広島大に進み、英語の教員に。結婚し、夫の転勤で姫路市に移った。

 「なぜ愚かな戦争をしてしまったのか」という疑問は拭えていない。「国やマスコミが発表する情報を信じ込まされていた」とも思う。経験をどう引き継ぎ、教訓をどう生かすか。情報があふれる現代だからこそ「正しいこと、正しくないことを見極めることが大事」と訴える。

    ◇   ◇

 被爆2世で、姫路で生まれ育った井上千草さん(60)も訪ねた。

 母親(84)は8歳の頃、爆心地から約4・5キロの自宅で爆風を浴びた。「扇のように閃光が広がったかと思うと、『ドーン』と爆風に吹き飛ばされた」。幼かった井上さんにそんな体験を聞かせてくれた母親の太ももには、その時の傷がなおも生々しく残る。

 ただ、偏見を恐れた母親は表立って原爆の話をすることはなかった。小柄な井上さんを見た母親の知人が「被爆のせいで背が低いのでは」と口にしたこともあった。

 井上さんは小学校低学年の頃から、テレビや漫画で「原爆」や「戦争」について目にすると、猛烈な恐怖感を抱くようになった。原爆ドームの夢を見たり、校庭で遊ぶ友達を眺めて「ここに原爆が落ちてきたら、全てが一瞬で吹き飛ぶ」と身をこわばらせたりした。

 76年が経過し、幼かった自分を振り返る。大人たちに「どうして戦争をしたの」と尋ね回ったことがあった。「原因が分かれば、もう二度と起こることはない」と思ったからだ。大人は皆、目をそらして答えた。「あれは仕方がなかったんだよ」。同じ問いを今、自分にも投げ掛けている。

【広島原爆】1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」がウラン型原子爆弾の「リトルボーイ」を広島市に投下した。市中心部の広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)付近の上空約600メートルで爆発。爆心地の地表温度は3千~4千度に達し、爆風や熱線で街の広範囲が瞬時に壊滅した。当時の人口約35万人のうち、45年末までに約14万人が死亡したとされる。

姫路戦後76年
姫路の最新
もっと見る
 

天気(9月6日)

  • 34℃
  • ---℃
  • 0%

  • 35℃
  • ---℃
  • 0%

  • 35℃
  • ---℃
  • 0%

  • 37℃
  • ---℃
  • 0%

お知らせ