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1972年ごろ、蒸気機関車の引退に合わせて撮影した記念写真=松本雅夫さん提供
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1972年ごろ、蒸気機関車の引退に合わせて撮影した記念写真=松本雅夫さん提供
機関区の移転前、OBらが集まって撮影した記念写真=松本雅夫さん提供
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機関区の移転前、OBらが集まって撮影した記念写真=松本雅夫さん提供
在来線高架化前の姫路駅。駅の東側、播但線との分岐付近に現在のアクリエひめじが完成した
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在来線高架化前の姫路駅。駅の東側、播但線との分岐付近に現在のアクリエひめじが完成した
姫路の機関区で長年働いた松本雅夫さん。自宅に、当時の配線図やダイヤグラムなどを保管している=高砂市
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姫路の機関区で長年働いた松本雅夫さん。自宅に、当時の配線図やダイヤグラムなどを保管している=高砂市

 絡み合った糸のように複雑に広がる線路。戦前に造られたとされる扇形の機関車庫-。JR姫路駅(兵庫県姫路市)東にこのほど開業した姫路市文化コンベンションセンター「アクリエひめじ」(同市神屋町)が立つ一角の、かつての姿だ。平成の初めまで「姫路機関区」をはじめとする車両基地などの鉄道施設が集まり、関西有数の規模だったという。在来線の高架化を機に郊外へ移転し、跡地に面影はないが、機関区に長らく勤めた元鉄道マンの話などから、懐かしの風景が見えてくる。(山本 晃)

 姫路の機関区の歩みは、JR神戸線の前身・山陽鉄道が姫路まで延伸した1888(明治21)年にまでさかのぼる。姫路駅の開業時には、すでに駅の南側に車両を方向転換する「転車台」や、機関車の車庫が隣接していたという。

 その後、山陽鉄道は国有化され、東西の大動脈として大きな役割を果たした。昭和初期ごろには駅の東、現在のアクリエ付近に扇形の機関車庫や貨車を集めて行き先別に並べ替える操車場も完成。駅南の施設も戦後、駅東へ統合された。

    ◆

 19歳から長年、姫路機関区で働いた松本雅夫さん(79)=高砂市=は、1970(昭和45)年当時の姫路駅の構内図を大切にしている。2メートル以上ある用紙に、枝葉のように伸びる線路が記されている。「中を移動するだけでも大変だった」と懐かしむ。

 松本さんは旧国鉄に入社後、61(昭和36)年に姫路第一機関区(当時)に配属された。電気機関車の運転なども経験し、7年半後に同機関区の車両検査部門へ。当時の機関区は、乗務員から検査担当まで600人近くが働く大所帯だった。

 検査で主に担当したのは播但線と姫新線で走る気動車や機関車。走行距離などに応じ、検査内容は多岐にわたった。山陽線の機関車も、長距離を移動するため、目的地へ向かう途中に姫路で検査期限を迎える場合があり、松本さんたちがメンテナンスを行っていた。

    ◆

 戦後の経済発展を支えてきた機関区や操車場。その一方、姫路駅周辺の高架化計画や鉄道貨物の衰退で、あり方が検討されるようになった。姫路市が、高架化を機に一帯を再開発することになり、94(平成6)年3月、貨物機能は縮小して姫路市別所町へ、気動車の整備機能は同市飾西へ分散移転。姫路機関区の名も、その後の改組で消えた。

 実は、移転時の機関区長を務めたのも松本さんだ。国鉄の分割民営化後はJR貨物へ。大阪の吹田機関区で勤務した後、別所町への移転1年前に、“古巣”へ戻ってきた。管理職として当日まで準備などに奔走。移転の数日前、機関区のOBらが大勢集まってきた。その日、戦前から残る機関車庫の前で記念撮影した写真を、松本さんは今も大事にアルバムに挟んでいる。

 「自分も姫路の機関区で育ててもらったから、(機関区長として)戻ると聞いた時はうれしかったな」。愛着のある場所だからこそ、移転後に長らく空き地だった機関区跡を通りかかるたび、さみしさを覚えたという。「ここは命懸けてやってきた職場やから」。鉄道員として共に歩んできた姫路の機関区。街の姿は大きく変わっても、その誇りが色あせることはない。

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