6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から31年がたちました。10万棟を超える建物が全壊し、兵庫県内では最大32万人近くが避難所生活を強いられました。当時を知る人が減る中で、一人一人の体験を伝えていく重要性が増しています。今回の「ひょうご防災新聞」は特別編。あの激震から大切にしてきたことや、今につながる記憶を聞きました。

店主の岡本美治さん(84) 神戸・須磨の喫茶店「カーナ」全焼

公衆電話に長い列、「家族の声聞けた」 プレハブで営業再開時に設置、「残し続ける」

 阪神・淡路大震災で全焼した神戸市須磨区寺田町1の喫茶店「リバティールーム カーナ」は、2004年に再建した店舗の店先に公衆電話を置く。震災では電話の不通が28万5千回線に上り、被災地のあちこちで公衆電話の前に長い列ができた。店主の岡本美治(みはる)さん(84)=同市須磨区=は今も地域の小学生に公衆電話の使い方を伝えている。

再建した店先に公衆電話を設置し続ける岡本美治さん=神戸市須磨区寺田町1

 岡本さんは1988年7月にカーナを開店。95年の震災は同市須磨区若木町2の自宅で激しい揺れに遭い、家族の無事を確認してから約2キロ東の店まで歩いた。建物は傾いてシャッターが開かず、何も取り出せないまま自宅へ戻った。

 夜になり、自宅近くから店の方を見ると東から火が迫っていた。店の電話は通じなくなり「周辺が燃えだした」と覚悟した。3日後、足を運ぶと店は焼け、まだ煙がくすぶっていた。

 跡地にプレハブの店舗を建て、4月に営業を再開。焼け野原となった店舗周辺では、家を失い家族だけが避難した人もおり、連絡手段として店先に公衆電話を設置した。住民らが立ち寄って受話器を手に取り「嫁さんの声が聞けた」などと喜んだ。公衆電話は2004年に再建した現店舗に引き継いだ。

 近年は地元のだいち小学校に依頼され、授業の一環で店にある公衆電話の使い方を教える。受話器を上げてから硬貨を入れ、相手の電話番号を押すという手順を伝える。いざという時のために「お母さんやお父さんの携帯電話の番号を一つでも覚えておこうね」と呼びかける。

 阪神・淡路当時と異なり、携帯電話やスマートフォンは普及したが、災害で停電が起きれば充電はできない。24年1月の能登半島地震では固定電話に加え、携帯電話の回線でも通信障害が発生し、応急復旧に2週間以上を要した。

 NTT西日本によると、公衆電話の設置台数は兵庫県内で3431台(25年3月末時点)で、阪神・淡路直後の1995年3月末と比べて約9割、約3万台減った。

 岡本さんは店を続ける間は公衆電話を置くといい、「大規模な災害が起きれば、公衆電話に頼ることになる。その時に『カーナにあったな』と思い出して使ってもらいたい」と話した。(田中宏樹)

身に染みた「普段」のありがたさ/助け合いあれば生きていける/少しでも備えたい

 阪神・淡路大震災から31年がたった1月17日、神戸市で営まれた追悼行事などを訪れた人たちに当時の記憶を尋ねた。

 川崎重工業の社員だった中島昭光さん(85)=神戸市兵庫区=は神戸・東遊園地に足を運んだ。

 1995年1月17日は、午前1時ごろに仕事を終えて自宅マンションに帰宅した。妻に「お風呂に入ったら」と勧められたが、「仮眠を取る」と断った。布団に入って約4時間後に激震に見舞われた。

避難所となった小学校のグラウンド。支援物資が積まれ、炊き出しも行われた=1995年1月29日、神戸市兵庫区

 近所では火災が発生したが、延焼はマンション隣の公園で止まった。自宅は壁にひびが入ったり、家具が倒れたりしたが、何とか住める状態。ただ、断水が続いて風呂に入れなかったのがつらかった。1カ月ぶりに湯船につかった時、「普段の生活のありがたさが身に染みた」。

 震災後、同市中央区の東遊園地で1~2カ月に1度、亡くなった友人らを追悼してハーモニカを演奏している。「神戸は地震が来ないと言われていたのに起きた。私は生かされている側」と語る。

 神戸市長田区のカトリックたかとり教会で礼拝の列に加わったのは坂元史(ちかし)さん(50)=同市兵庫区。「成人式の2日後に震災があり、他の記憶が全てかき消された」と振り返る。

阪神・淡路大震災の直後、銭湯には長い行列ができた=1995年1月26日、神戸市兵庫区東山町

 当時は大学生で、両親と住んでいた同市兵庫区のマンションで被災した。家族は無事だったが、水も食料も電気もない生活になり、新成人の晴れやかな気持ちが吹き飛んだ。

 友人が通学のために泊めてくれたことが忘れられない。「何もなくなっても、人との助け合いがあれば生きていける」。今も仕事などで壁に当たるたび、そんな思いがよぎる。

 川本陽子さん(43)=同市中央区=は、HAT神戸を発着点に開かれた「ひょうごメモリアルウォーク」に家族で参加した。

 小学6年のとき、同市中央区の自宅2階で母親と並んで寝ていた時に揺れに遭った。家も家族も無事だったが、ライフラインが止まり、近所の人と声をかけ合ったことを覚えている。「いざという時のために少しでも備えられたら」。そんな思いを胸に歩いた。(真鍋 愛、岩崎昂志、赤松沙和)