次男・琉生さんの写真を手に体験を語る奥嶋愛さん=西脇市内

次男・琉生さんの写真を手に体験を語る奥嶋愛さん=西脇市内

■子どもの闘病と家族

 今月のインタビューは、小児がんで当時4歳の次男を亡くした西脇市の奥嶋愛さん(43)に体験を聞きました。入院を伴う長期の闘病で家族の日常が一変し、先の見えない状況でも周囲のサポートで家族の幸せをつむぎました。つらい喪失感は今も消えませんが、奥嶋さんは同じような経験をした人たちが語り合う場づくりに踏み出しています。

 -次男の琉生(るい)さんは3歳になる直前に発症した。

 「琉生の熱や頭痛が続いて病院を受診した日、『風邪かな』と思っていたら夕方に吐血し、総合病院へ運ばれました。意識がないまま、神戸の県立こども病院に移って緊急手術。脳出血と、急性骨髄性白血病と告げられました。混乱し、『もっと早く気づけたのでは』と自分を責めました」

 「そのまま入院し、抗がん剤治療が始まりました。琉生は頑張って治療を受けてくれましたが、月1回の外泊以外は病院です。外遊びが好きな子で『遊びたい、食べたい』との思いは強かった。私たち夫婦は自宅で長男の子育てをしつつ、交代で神戸へ通いました」

 -家族の負担も大きい。

 「日々の生活や体力面の負担もありましたが、(闘病の)終わりが見えないことが一番つらかったです。本人の前では明るく振る舞いましたが、不安や、同じ病室で先に退院する子たちを見送る時の複雑な思いもあって…。地元の友人や周囲は境遇が違い、病気のことを気兼ねなく話すのは難しかったと思います」

 「救いになったのはそんな気持ちを聞いてもらえる人たちの存在でした。病院近くにある患者や家族向けの滞在施設『チャイルド・ケモ・ハウス』を長期利用するようになり、スタッフや看護師らが毎日、病院での生活を聞いてくれました。琉生も一時外泊時に花火をしたり犬型ロボットで遊んだりして。第二の家族のような場所です」

 「当時住んでいた多可町の子育て施設の方々も気にかけてくれ、感染対策をして遊ばせてくれたこともありました。『離れているけど応援している』との言葉が、ありがたかったです」

 -その後は。

 「一度自宅に戻りましたが再発し、再び入院。主人からの骨髄移植を経ても、厳しい治療が続きました。新型コロナ禍で面会制限もありました。琉生はつらかったと思います。発症から1年2カ月、最期は家族で抱いて見送りました」

 「それから時間がたっても、家に琉生がいないことが信じられない思いでした。成長する長男の姿は喜びですが、今もアルバムをめくると手が止まらなくなります。病気や事故で子どもを亡くした人が集う場にも参加しました。琉生のことを語り、聞いてもらうことがうれしかった。近くにもそんな場をつくりたいと、主人と話し合いました」

 -多可町の子育てふれあいセンター「ココミル」を拠点にした活動「れもんの木」ですね。

 「月1回のお話し会で語り合い、小児がん患者を支援するレモネード販売もしています。重い病気に向き合う家族も、子どもを亡くした人も、実は周りにいます。懸命に向き合っているのが『私だけじゃない』と気づき、話すだけでも元気になることがある。少しでもそんな支援ができれば。私自身も琉生の存在を感じながら語れる場が、ありがたいと感じています」(聞き手・岩崎昂志)