温泉寺に祭られている行基像
温泉寺に祭られている行基像

 有馬に歴史上の人物が来られた時は、偉業を成し遂げた後か、失意を癒やすためが多いように思います。舒明天皇は631年に有馬温泉に来られた前年、遣唐使を派遣しました。

 第2回遣唐使は653年、孝徳天皇の時代でした。堺生まれの道昭が唐の都に派遣され、道昭は唐で玄奘(げんじょう)という僧に教えを受けました。玄奘は629年、商人に交じってヒンドゥークシュ山脈を越えてインドのナンダーラに行き、仏教の経典、大般若経を唐の都に持ち帰った人です。そしてサンスクリット語で書かれていた経典を中国語に訳したのです。玄奘はあの西遊記の三蔵法師のモデルです。

 道昭は日本に帰り、法興寺で法相宗を広めました。難解な法相宗の経典を、15歳で出家した僧が1回読んだだけで理解したといいます。それが行基です。

 710年に行われた平城遷都の頃、過酷な労働を強いられた農民たちが逃げ出す事態が頻発しました。行基はこうした人々を救い、多くの人が集まって「行基集団」が組織されましたが、時の朝廷(元正天皇)から弾圧を受けました。

 しかし、723年に開墾した土地の私有を3代にわたって認める「三世一身法」が発令すると、行基集団はそれぞれの土地の士族や農民と利害が一致し、さらに勢力が拡大しました。

 731年、行基によって伊丹の昆陽池が整備されて水田が可能となり、この功績もあって朝廷は行基への弾圧を緩めました。736年には難波の津でインド人の僧からソラマメを行基が受け取り、昆陽池でソラマメを植えたとされます。現在は尼崎の富松(とまつ)神社の宮司が「富松一寸ソラマメ」として伝承されています。

 行基はその後、聖武天皇の大仏建設に協力し、741年、聖武天皇が木津川の泉橋院に行幸した際に行基と会見し、猪名野の荒れ地を与えました。

 行基はインドの「給孤独園(ぎっこどくおん)」に当たる、身寄りのない孤独な者たちのための宿泊施設「布施屋」を建てました。ちなみに「孤」は16歳以下で父親のいない者、「独」は60歳以上で子のない者のことを言うそうです。難民を救済する布施屋の思想は、種をまいて功徳の収穫を得る仏教の「福田(ふくでん)」と呼ばれています。

 一方、行基が山津波で崩壊していた有馬温泉を復興し、温泉寺を建立したといわれるのが724年。ちょうど伊丹台地を開墾する時期です。(有馬温泉観光協会)