青春時代を過ごした広島に、戦後50年まで足を運べなかった葛下友和さん。「あの時の風景をどうしても思い出してしまうからね」=三田市内(撮影・長嶺麻子)
青春時代を過ごした広島に、戦後50年まで足を運べなかった葛下友和さん。「あの時の風景をどうしても思い出してしまうからね」=三田市内(撮影・長嶺麻子)

 今年のノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が選出されたニュースが世界を駆け巡って1カ月余り。「被爆者の苦労を分かってもらえた」。19歳のときに出身地の広島で被爆し、語り部として活動する葛下(くずした)友和さん(98)=三田市=も喜びをかみしめている一人だ。一方で、自身の被爆体験と向き合えるようになるのに半世紀近くが必要だったという。その理由とは。(聞き手・井原尚基)

 ノルウェーのノーベル賞委員会の発表時、自宅にいた葛下さん。一報は千葉で暮らす長女からの連絡で知った。

 「大方の人と同様、想像していなかったので驚いた。被団協の活動が認められ誇らしい。1発の爆弾で過酷な人生を余儀なくされた被爆者の苦労を分かってもらえた」

■焼かれる遺体

 原点となる被爆の瞬間は、爆心地から2・1キロ南の広島工業専門学校(現広島大工学部)の校舎にいた。