７月２６日午後、菅義偉首相が、広島の原爆投下直後に降った「黒い雨」を巡る訴訟で上告断念を表明した。

　「被爆者援護法に基づいて救済すべきと考えた」

　終戦７６年を前に原告８４人が「被爆者」として認定される大きな節目となった。

　「被爆者にとって戦争は続いているということ」。兵庫県豊岡市原爆被害者の会の藤本治憲（はるのり）さん（９５）＝豊岡市＝は語気を強める。

　旧日高町出身。１９４５年５月、１９歳で広島県の海兵団に入り、７月２７日に広島市中心部の海軍監督官事務所に配属された。後に原爆ドームとなる広島県産業奨励館のすぐ近くだった。

　将校ばかりで恐縮し、自分と同じような兵隊のいる所への配属を依頼。８月３日に広島県西部地御前村（現廿日市市）の分室に移った。その３日後、原爆が投下され、事務所にいた将校の多くが亡くなった。

　午後、トラックで広島市へ救援に向かう。多くの遺体の中で、皮膚がただれた人や、亡くなっている弟を背負っている子ども、水をくれと叫ぶ人－。「戦争ってこんなに酷（ひど）いものだろうか。地獄を見ているようだった」

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　藤本さんが被爆者健康手帳を交付されたのは、それから約５０年後。配属直後で、広島市に入った経路も不明瞭。さまざまな地域からの寄せ集めだった海軍兵の中で証人捜しも難航した。広島に足を運び、自分のことを覚えている人を探した。

　担当者から「命令があっても爆心地に入った証明にはならない。逃亡する者もいる」と心ない言葉を受けたこともある。そして、手帳を交付される前に亡くなった知人もいる。

　黒い雨訴訟の原告には今月手帳が交付されたが、８４人中１４人は提訴後に死亡、１人は判決後に亡くなった。

　「人間が経験したことのない兵器。いつ体に異変が起こるか分からないまま暮らさなければいけない」と、藤本さん。首相は原告以外の救済にも言及した。すでに戦後７６年がたつが、「せめて被爆者として認められてほしい」と話す。

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　全国の手帳所持者は３月末で１２万７７５５人。前年より８９２７人減り、平均年齢も８３・９４歳となった。

　豊岡市原爆被害者の会では、事務局のたじま医療生活協同組合（同市今森）が手帳の取得申請などで５０人以上を支援した。現在、会員数は１５人までに減った。

　長年、会長を担ってきた谷口敏夫さん（９３）は「正直、伝えようという気持ちを失ってしまった」と話す。体重も減り、趣味のカラオケもできない。

　戦時中、海軍特別年少兵として呉海軍病院（広島県呉市）に配属。原爆投下の３日後、上司に命じられて広島市内に入り、黒い紙で巻いたレントゲンフィルムを何カ所かに置いた。「フィルムは放射線で感光するため、原爆かどうかを確かめようとしたのだろう」

　世界には現在、約１万３千発の核弾頭が存在する。その中で「経験者がいなくなっていくことは残念」。谷口さんは嘆く。

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　８月１５日で終戦から７６年となる。あの夏ははるかに遠く、但馬でも戦争の記憶の引き継ぎが難しくなっている。大国同士の対立で世界情勢の先行きが不透明感を増す現状に、戦争体験者も危機感を深める。歴史の「語り部」の話を紹介する。（石川　翠）

■「黒い雨」訴訟　

１９４５年８月６日、米国による原爆投下後、爆心地の広島市や周辺に放射線物質やすすなどを含む「黒い雨」が降った。国は、高い放射線量が検出された地域を被爆者健康手帳が交付される「被爆地域」に指定。南北約１９キロ、東西約１１キロの楕円（だえん）形の範囲を「特例区域」とした。しかし広島県と広島市は区域を５～６倍に拡大するよう要望。区域外で雨に降られた８４人が原告となった裁判で、一審、二審とも原告全員に被爆者健康手帳の交付を認める判決が出され、国は今年７月２６日、上告断念を表明した。