但馬

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元英国人捕虜の長男(前列左から4人目)が訪れた際に生野を案内した山田治信さん(後列左から2人目)=2010年9月、生野銀山(朝来市提供)
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元英国人捕虜の長男(前列左から4人目)が訪れた際に生野を案内した山田治信さん(後列左から2人目)=2010年9月、生野銀山(朝来市提供)
戦争当時の様子を語る山田治信さん=朝来市
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戦争当時の様子を語る山田治信さん=朝来市

 8月15日で終戦から76年となる。あの夏ははるかに遠く、但馬でも戦争の記憶の引き継ぎが難しくなっている。大国同士の対立で世界情勢の先行きが不透明感を増す現状に、戦争体験者も危機感を深める。歴史の「語り部」の話を紹介する。

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 戦争があと1年続けば、学徒動員され工場などで働くはずだった。兵庫県朝来市の山田治信さん(90)は旧制生野中学校の2年生で終戦を迎えた。空襲など直接の攻撃には遭わなかったが、「学習から何から全部戦争に奪われた」。

 山田さんは1931(昭和6)年、同市生野町口銀谷で生まれた。小学5年で同町新町に引っ越し、44年に旧制生野中学校に入学。

 「授業は短縮されて、勤労奉仕ばっかり。炭焼きや田んぼの手伝いにかり出されていた」

 学校では軍から派遣された配属将校の下、教育勅語や戦陣訓、モールス信号などを覚えさせられた。ゲートルを巻いたまま長時間正座をさせられ、立ち上がる際によろめくと運動場10周を言い渡されるなど「油断も隙もない生活」だった。

 45年になると、1年上の3年生は学徒動員で生野を離れ、工場での労働に従事した。同級生と卒業後の進路を考える機会が増え、山田さんは陸軍の兵学校に進むことを心に決めていたという。「戦車兵や航空兵になると話す友人もいたが、危なくない、命を守れるところに行きたかった」

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 ある日、山で伐採作業をしていると、敵機が低空飛行で上空を通過した。攻撃こそなかったが、「操縦士の顔が見えるほどの距離で恐怖を感じた」と話す。

 播但線が機銃掃射を受けたこともあり、その時には小学校の同級生が亡くなったと聞かされた。

 日本の勝利を伝えるニュースが多かったが、配給は少なく、山で摘んだ若葉を少量の米に混ぜて食べるほど生活は困窮。子どもながらに戦況の悪化を感じた。

 当時、生野には大阪捕虜収容所の分所があった。英米人などが生野銀山での採掘作業を強いられ、迷彩服を着た捕虜たちが収容所から鉱山まで隊列を組んで移動する姿をよく見かけた。

 終戦はあっけなかった。夏休みを利用して訪れた香住町(現香美町)の友人の実家の近くで玉音放送を聞いた。

 「何を言ってるのかよく分からなかったけど、負けたらしいことは分かった」

 進駐軍に鉄道を押さえられるといううわさが広がり、慌てて生野に戻った。

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 終戦後、捕虜たちが徐々に町に出てくるようになった。山田さんも、おじが、貸した自転車のお返しにサイズの大きなパジャマをもらったという。捕虜と直接話す機会はなかったが、住民と親しく接する姿が印象深く残っている。

 2010年9月、収容所にいた元英国人捕虜の長男が生野を訪れた際、山田さんも案内に加わった。観光がてらの訪問だと考えていたが、収容所跡地の前でろうそくに火をともし、深々と頭を下げて黙とうする姿に、「家族を思う気持ちは国や時代が違っても変わらない」と心を打たれた。

 終戦から76年。「平和が続いていることはありがたいこと」と穏やかに話すと同時に、「こんな時代があったことは忘れてはいけない」と語り続けている。(竜門和諒)

【大阪捕虜収容所生野分所】労働力不足を補うため、旧日本軍が全国の炭鉱や工場などに連合軍捕虜を配置した。生野分所には終戦時、英国人や米国人など6カ国の440人が収容されていた。収容中の死者はいなかったとされる。現在の朝来市生野町猪野々にあり、図面によると、敷地面積は約9100平方メートル。生野に滞在して米国人捕虜の通訳を務めた小林一雄さんの著作「捕虜と通訳」によると、塀と鉄条網に囲まれた敷地にバラック建ての粗末な建物が並び、生活棟や医療棟、炊事棟などに分かれていたという。

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