但馬

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介護老人保健施設へ面会に訪れた柤岡の親せきと談笑する岸本馨さん(左)=宝塚市
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介護老人保健施設へ面会に訪れた柤岡の親せきと談笑する岸本馨さん(左)=宝塚市
満蒙開拓青少年義勇軍に参加し、茨城県の訓練所でくわを振るう訓練生(写真集「満蒙開拓青少年義勇軍」から)
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満蒙開拓青少年義勇軍に参加し、茨城県の訓練所でくわを振るう訓練生(写真集「満蒙開拓青少年義勇軍」から)

 1945年8月、終わるはずの戦争は終わらなかった。兵庫県香美町村岡区柤岡(けびおか)出身の岸本馨(かおる)さん(96)は、日本の支配下にあった満州(現中国東北部)で関東軍の歩兵隊に入隊。国境の守備に就いていたが、ソ連軍の侵攻に投降すると、シベリアに2年近く抑留された。

 当時20歳。夏服のまま連行され、マイナス20度の厳しい寒さの中、来る日も来る日も炭鉱で働かされた。大豆やグリーンピースを溶かした雑炊を仲間と分け合うようにして食べた。凍傷と飢えで歩く速度が遅くなると、ソ連兵に決まって追い立てられたという。

 「怖いとか情けないというより、ただただ、仕方ないという思いが強かった」

 宝塚市の介護老人保健施設に入所し、リハビリに励みながら、76年前の過酷な体験をそう振り返る。

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 父親が水田耕作や畜産を営む一家で、5人きょうだいの長男として生まれた。40(昭和15)年、15歳で、国策の移民事業「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」の募集に応募。全国から参加した10代後半の青少年約1万人と茨城県での訓練を経て、神戸から満州へ船で渡った。

 「広い土地をくれるというから、農業で一旗揚げようと思った。でも、本当に行くのだなとも感じていた」と岸本さん。射添尋常高等小を卒業し、進学も考えたが、家庭の経済状況を考えると諦めざるを得なかった。国民を戦争へと駆り立てた時代の歯車に、いや応なくのみ込まれていった。

 満州では3年間、農耕訓練や軍事教練を受け、約300人の開拓団に入った。中国人から買い上げたと聞いた土地で、ジャガイモや大麦、小麦、大豆、トウモロコシを植えた。

 そして翌44年8月、徴兵検査に合格。45年3月には関東軍への入隊が決まった。

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 将校らに敗戦を告げられながら信じられず、シベリアに抑留されたのは約半年後のことだった。

 炭鉱で1年余り働き、46年冬にナホトカ港周辺へ南下した。長い収容所生活が続くと、ソ連が抑留者に行った思想教育の影響か、日本軍の批判や上官の中傷を記した壁新聞を張り出すグループもいたという。

 47年4月、「ダモイ トウキョウ」(東京へ帰してやる)-との声が聞かれるようになり、ついに乗船の日が決まった。京都・舞鶴港へ引き揚げてきた翌日、鉄道とバスを乗り継ぎ、夕方、柤岡の実家へ。薄暗い台所で何かを煮ていた母親は、うれしさと驚きで異様な顔をして迎えてくれた。

 帰郷以来、工場労働者や杜氏(とうじ)として出稼ぎを続け、一から生活を築いてきた。

 80代後半になり、人前で語り始めた戦争体験。岸本さんは「日本のような小さな国が、アメリカや世界を敵に回しても勝てっこないのは分かっていた。無謀な戦争だった」と話す。

 「誰もが生まれた時代、置かれた環境で頑張るしかない。今の若者に伝えたいことがあるとすれば、子どもはきつく叱らずに育ててほしい」と静かに語った。(金海隆至)

【メモ】シベリア抑留 第2次世界大戦終結間際の1945年8月9日、ソ連は日本との中立条約を破って参戦し、日本の支配下にあった満州(現中国東北部)や朝鮮半島などで投降した日本人を連行した。抑留者は日本政府の調査で約57万5千人とされ、うち約5万5千人が死亡。約47万3千人が帰国した。軍人のほか、官吏や警察官、国策企業の社員らが、シベリアを中心に、中央アジアやモンゴル、ヨーロッパ、北極圏などの収容所に収容され、鉄道建設や土木建築、農作業などさまざまな強制労働に従事させられた。

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