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戦艦大和の写真を使って戦闘の様子などを話す竹田明さん(2008年1月27日)
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戦艦大和の写真を使って戦闘の様子などを話す竹田明さん(2008年1月27日)
戦艦大和の乗組員だった竹田明さんの遺品などを集めた「おじの大和ミュージアム」。おいの竹田茂樹さんが運営してきた=養父市
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戦艦大和の乗組員だった竹田明さんの遺品などを集めた「おじの大和ミュージアム」。おいの竹田茂樹さんが運営してきた=養父市

 「わしはあそこで撃ちよったんじゃ」

 2005年、広島県呉市の「大和ミュージアム」。戦艦大和の模型を前に、乗組員だった竹田明さん=当時(81)=が声を発した。

 「突然の大声で驚いた」。おいの茂樹さん(78)=兵庫県園養父市=が、そのときの様子を振り返る。

 戦後60年間、家族にすら戦争体験を多くは語らなかった叔父。それ以降は、平和学習の小学生の質問に答えるなどして言葉を残した。その傍らで茂樹さんは戦争について多くのことを学んだ。

 明さんが亡くなった2013年のお盆、恩賜の時計や手帳など遺品を集め、明さんの自宅で資料館「おじの大和ミュージアム」を開いた。明延鉱山を訪れた観光客や、大和の元乗組員らが訪ねてきた。来館者は延べ1500人に上った。

 大和で戦った乗組員の思いや戦場の悲惨さ、平和の尊さ-。語り部として訴えてきた茂樹さんは今春「叔父の思いは多くの人に伝わった。自分が元気なうちに閉館する」と決めた。

   ◆

 明さんの兄、隆さんも大和の乗組員。兄弟で乗組員だったケースは珍しく、明さんが体験を語り始めたことから取材が相次いだ。

 明さんは1943年、3歳上の隆さんに続いて海軍に入り、翌年1月から大和に乗艦。敵機の速度などを分析し、射撃を指示する高角砲発令所に配属された。

 大和が沈没した45年4月7日、明さんは艦内にいたが、攻撃で持ち場が破壊され、甲板へ。「ちぎれた腕や首が転がり、負傷者が痛みにのたうち回っていた」

 艦上にある隆さんの持ち場を見上げ、互いに手を振り、無事を確認し合った。明さんは間もなく傾いた船から海に投げ出された。大和の爆発で吹き飛んだが、味方の軍艦に助けられた。

 帰還後、沈黙を守ったのは「乗艦した4人の旧南谷村(養父市大屋町)出身者のうち生還したのは私だけ。生き残った後ろめたさがある」からだった。

 平和学習でのインタビューでは、戦争に向かうときの気持ちを「軍国主義の中で戦争に行くのは当たり前。死を覚悟して沖縄特攻に向かった。私は、お国のために戦った」と語った。

   ◆

 今年8月13日。大阪府内から30代のカップルが訪れた。来館のきっかけは動画投稿サイト「ユーチューブ」。今春、茂樹さんの親戚、田路森平さん(23)が撮影した「戦艦大和 生還者の証言」と題した映像だ。茂樹さんが手掛けてきたミュージアムを記録した約30分間の動画に収めている。

 田路さんは「閉館するとのこと。自分にできることをと考えた」と話す。この日も、明さんの出征時の寄せ書きを撮影し、今後、送り出してくれた京都の呉服屋周辺を取材するという。

 茂樹さんは「個人的な資料が多く、公的施設は引き取りにくいとも聞く。どう継承するか。知恵を貸してほしい」と訴える。戦後76年をたどる資料や記憶を風化させてはならない。(桑名良典)

=おわり=

【戦艦大和】旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦。広島県の呉海軍工廠(こうしょう)で、1941年12月に完成。全長は263メートル、射程42キロの主砲を備えた。ミッドウェー海戦やレイテ沖海戦に出撃。特攻作戦で沖縄に向かっていた45年4月7日、米軍の攻撃を受けて鹿児島沖の東シナ海に沈んだ。乗員約3300人のうち生還者は276人。旧南谷村(養父市大屋町)からは4人が乗船していたという。「おじの大和ミュージアム」には兄弟で撮影した写真や海軍のアルバム、砲術学校の在籍時に贈られた恩賜の時計などが展示されている。

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