明智光秀が敗れた「山崎の合戦」に、羽柴(豊臣)秀吉は遅参していた-。関連の書状を入手、分析した中京大の馬部隆弘教授(日本中近世史)が提唱する説に注目が集まっている。馬部氏は「秀吉は、本能寺の変で光秀に討たれた主君・織田信長の弔い合戦に間に合わなかった事実を伏せたかった。うそが通説として広まった」と強調する。
合戦は、現在の京都府大山崎町付近で、信長の死を知った秀吉が光秀を倒し、敵討ちを果たした戦いとされている。
書状は、一昨年に中京大が入手し、馬部氏が分析していた。合戦当日の1582年6月13日の日中、秀吉が山崎から約12キロ離れた富田(大阪府高槻市)で書いたものとみられる。姫路城にいる配下の武将に宛てたもので「明日西岡に出陣する」と記されている。筆跡や文体の特徴から、信ぴょう性は高いという。
加えて、合戦から約4カ月後に書かれたとされる秀吉の複数の書状(国立公文書館など所蔵)を分析した結果、遅参を隠そうと推敲した形跡があったという。
























