55年ぶりの万博に沸いた大阪。江戸時代には日本の商業の中心として「天下の台所」と呼ばれ、東京一極集中が指摘される今も、独自の存在感を誇る。
その大阪には「がめつい」「おもろい」というイメージがつきまとう。それがメディアによって創られた比較的新しい概念だとしたら…。メディア文化史が専門の山本昭宏・神戸市外国語大准教授が、そんな研究を編著『河内と船場 メディア文化にみる大阪イメージ』(ミネルヴァ書房)にまとめた。山本准教授が「大阪らしさ」のイメージを分析するのに着目したのが河内と船場という二つの地域だ。”がめつく”“おもろい”「大阪らしさ」はどのように生まれ、この先どうなっていくのだろうか。(取材・文 共同通信=加藤駿)
× ×
-現在の大阪府東部に当たる河内は長く大阪の街の外の農業地帯でしたが、昭和に入ってから市街地の開発が本格化し、戦後に郊外として人口も増えていきました。一方で大阪市中心部の船場は、豊臣秀吉が大阪城を築城して以来、長く商人の街として栄えました。なぜこの二つの地域が重要なのでしょうか。
「今、大阪らしさと呼ばれるイメージの源泉を歴史的に見ると、河内の労働者階級と農民、船場の商人にたどり着くんです。それは、出版やテレビといったマスメディアのコンテンツを通して、たかだか50、60年前の高度経済成長期に形成されたもの。その頃、いわゆる『河内的なもの』が『船場的なもの』を圧倒するかたちで大阪文化を再編成したとみています」
「『河内的なもの』を体現したのが、例えば作家の今東光(1898-1977)の河内を舞台とした大衆小説ですね。それが、大阪全体のイメージになっていったんです」
-今東光は横浜生まれで、幼少から各地を転々とした人ですが、戦後の1951年に大阪府八尾市に住職としてやってきてから、『闘鶏』『悪名』『河内カルメン』など、河内を舞台にしたり、ばくち打ちや水商売の女性などが登場したりする小説で流行作家になります。彼自身は「下劣で、ケチン坊で、助平で、短気で、率直で、つまりは僕自身に似た人物、それが河内者」だ、と述べていますね。
「そんな地域のカラーがある種の階級性とも結びつけて語られてきた大阪の地図を頭に入れると、いまメディア上に現れるステレオタイプな大阪文化が実は持っている『多様性』が見えてくるのではないかと考えました」
-メディアが広めた大阪イメージの変化を象徴するキーワードとして研究で注目したのが「ど根性」だそうです。
「ど根性は、漫画『ど根性ガエル』や『巨人の星』に典型的ですが、壮絶な努力をして最後は勝つという精神を指します。敵が強ければ強いほど、勝つ喜びが増えるため、作り手からするとドラマを作りやすい。努力で自分の地位を高めていく立身出世の物語を、日本人は大好きでしたしね」
「1950年代に、大阪中心部の商人の街・船場を舞台にしたど根性の物語で世に出たのが、作家の山崎豊子(1924-2013)です。自身も船場生まれの山崎は、実家の昆布商をモデルにした『暖簾』でデビューし、その後も『花のれん』など、船場商人の、ど根性を一つのテーマとした作品を発表します」
「ただ、彼女の作品で船場の商人のど根性は、とにかくうそをついてでももうかればよしとする、結果至上主義のえげつなさとは明確に区別されていました。えげつなさは、船場らしさとは違うもの、船場の外のものとして描かれていました」
-1950年代は、船場の街の姿が大きく変わっていったとされる時期ですよね。戦前から進んでいた都市環境の悪化や、空襲によって、船場にいた商人たちが郊外へと流出していったと聞きます。
「そうです。彼女の作品には、無くなっていくものへの哀惜の念がある。ある時点からは、船場が舞台の話はもう書かなくなった」
「ところが、それと前後して大阪の外である滋賀出身の作家・花登筺(1928-1983)が現れます。彼は船場を舞台装置として割り切って、商売人のど根性を、えげつなさも交えながら過剰に描く。そんな在阪テレビ局のドラマの脚本を書きまくります。『番頭はんと丁稚どん』『細うで繁盛記』『どてらい男』…。これが当時の視聴者に大好評を博したんです」
-歴史に裏打ちされた上品さも備えた船場=大阪像が、ぎらついた、えげつないイメージに再編されてしまいました。
「そうですね。高度成長期の大阪には、西日本各地から職を求め人口が流入しました。裸一貫で都会に出て一旗揚げるんだという当時の人々の思いを、花登筺の作品はうまくすくい取ったといえます。当時既に、東京に対して、地盤沈下が指摘されていたとはいえ、立身出世を果たした財界人が実際に活躍する舞台が大阪でした。だから物語に説得力があった」
-大阪は、外のものを取り込み自分のものにしてしまう力を持っていたということですか?
「起源は外にあるのに、都合よく忘れて『大阪のもんや』と打ち出していく。一種のイメージ戦略だし、多くの大阪人にとっても心地が良かったのでしょう。加えて、地方から大阪に来た人たちにとっては、メディアで描かれる大阪らしさが、大阪でどう振る舞うかの教科書みたいなものになったように思います。花登筐を作家の世界に引き入れたのが、今東光というのは示唆的です」
-一方で、上方古典芸能を研究する木津川計のように、河内的なものを「がさつ」だとみて、その大阪文化への浸透を「文化のテロル」と呼び批判した文化人もいます。
「河内を下に見て、『がさつ』の一言で片付けるのは、個人的には違和感があります。むしろ大阪は、1970~80年代にかけて、河内的なもののイメージにずいぶん助けられたと思いますよ」
「お笑いだってそうです。藤山寛美の松竹新喜劇的な、ストーリーをしっかり見せていく『遅い笑い』から、吉本新喜劇的な、つかみからどんどん笑わせるスピーディーな笑いへの展開がありました。河内的なものがコミカライズされ、大阪文化を活性化し、さらに全国に広がった部分というのは確実にあるんですよ」
-高度成長期から20世紀末までの在阪テレビ局が主導したメディア空間が、動画配信や交流サイト(SNS)中心のインターネット空間に置き換わっていくことの影響はどうでしょうか。
「交流サイト(SNS)や動画配信という新しいメディア文化で、中高年はともかく若者世代が“大阪性”のようなものを再生産できるかというと、それは心もとないと思う。まあ、別にやらなくてもいいと思いますけど」
「メディアは交通と一緒ですから。高速道路が通ると田舎から都市へお客が流出するのと同じで、ネット上で資本力でも人口比でも優勢な東京発のコンテンツがそのまま流れれば、在阪局はどんどん見られなくなっていく気がします」
「のっぺりした東京発信の言論やエンターテインメント、語り口への対抗性みたいなものは失われていくんじゃないかなあ」
-すると、大阪らしさのイメージは、今後どうなるのでしょうか。
「今は梅田も天王寺も、西成でも再開発をばりばりしてますよね。どこも現代的に“東京っぽく”街をつくり替えた上で、そこに「おもろい」とか「人情」とか、大阪風のスパイスをまぶしているようなとこがある。商売に利用できる限りにおいて、のっぺりした大阪らしさが再生産されている状況です」
「実体が失われつつあるのに、イメージだけ残るという現在の起点が、高度経済成長だったともいえます。ただ、当時はまだあった実体が、今やほとんど残っていないというのは微妙ですが、決定的な違いです。それは悪いことでは無く、人々の娯楽はそういうものなのでしょう」
「河内的なものは『がさつ』『がめつい』といったネガティブなイメージで語られがちでしたが、そこには外からさまざまルーツの人たちを受け入れてきた大阪という都市の持つ多様性や混交性を許容する膨らみがあった気がします。そうしたふくらみや起伏が失われた先の大阪は、どこにでもある無個性な街になってしまわないか、おせっかいながら心配してます」
× ×
山本昭宏 1984年奈良県生まれ。著書に「大江健三郎とその時代」「残されたものたちの戦後日本表現史」など。