日本国憲法はきょう、施行77年を迎えた。健康で文化的な日常生活を送っているとき、憲法の存在を意識する場面は少ない。

 だが、発生から4カ月たった能登半島地震の被災地に目を向ければ、まだ多くの住民が最低限度にも及ばない避難生活を強いられている。

 全世界の人々が恐怖と欠乏を免れ平和に生きる権利を持つ、と憲法が掲げる崇高な理想との差は、どこからくるのだろう。

 憲法は、戦後復興の険しい道を照らす光となった。人権が危機にさらされる災害時にこそ、その理念を追求し、実践する意義があるはずだ。憲法記念日に考えてみたい。

    ◇

 兵庫県弁護士会の津久井進さんは阪神・淡路大震災が起きた29年前に弁護士となり、相次ぐ災害の被災地で法律相談に取り組んできた。復興のさまざまな壁にぶつかり、あるべき法制度を研究するうち「憲法はこの国の復興を目指してつくられた。復興基本法は憲法だ」との考えに至ったという。その視点から、憲法制定の経過をたどってみよう。

 当時の日本は、戦争と度重なる自然災害に見舞われ、荒廃した国土の復興が緒に就いたばかりだった。そんな中、敗戦の3カ月後には政党や民間の研究会などがそれぞれ新憲法の草案を発表し、憲法論議が活発化する。携わった人々は、焼け野原からの復興を遂げる決意と、誰もが安心して暮らせる国の理想を新憲法に刻み込もうとしただろう。災害で変わり果てた古里を前に再出発を誓う、現代の被災者の心情とも重なる。

■険しい道を照らす

 1947年5月3日、神戸新聞朝刊は「自由と平和へ」「民主日本の輝く門出」との見出しで新憲法の施行を祝った。当時の吉田茂首相は「われわれが生活の末端まで新憲法の精神を徹底させるならば、遠からず平和国家、文化国家として復興し、世界において名誉ある地位を占めることができると信じて疑わない」との談話を寄せている。

 神戸市内には花バス、花電車が走り、小中学校では記念のスポーツ大会が開かれたという。全国各地で同じような光景が繰り広げられた。

 国民主権を宣言し、平和と民主主義の国として歩むと誓う新憲法は戦後復興の道しるべとなった。敗戦から立ち直ろうとする国民に希望をもたらす存在だったことが伝わる。

 被災者支援の理念も憲法の中に見いだせる。国は基本的人権を尊重し、地方自治を実現し、国民の生命財産を守らねばならない。中でも「すべて国民は、個人として尊重される」とうたい、自由と幸福を追求する権利を明記した13条は「一人一人を大切にする復興の神髄を表している」と津久井さん。

 その後、憲法の理念を具体化する法律が次々に誕生した。47年10月施行の災害救助法もその一つだ。避難所設置や仮設住宅の提供、炊き出しと飲料水の供給など応急期に被災者を救済するのが法の目的とされた。

 だが今、その理念が十分生かされているとは言い難い。

 津久井さんは今回、能登の被災者の相談を受けていて、気がかりなことがあるという。退去期限が心配で仮設住宅の入居を躊躇(ちゅうちょ)する人や、災害公営住宅が建設されても家賃が払えないと不安がる人など、この地に住み続けることを早くも諦めようとする空気を感じるのだ。

■生活と幸せの回復

 被災当初の能登は、道路の寸断もあって物資が十分行き渡らず、断水は長引き、炊き出しも限られた。避難所の劣悪さは29年前の再現のようだった。仮設住宅建設はスピード感が乏しく、広域避難に応じた人の追跡は不十分で、被災建物の公費解体も遅れている。一番必要な時に、救助法が機能しなかったに等しい。

 津久井さんは「災害法制は被災者の生活と幸せを回復するためにある。その理念に沿って運用すれば、これほど悲惨な状況は生じないはず。行政は細かい基準にとらわれ憲法の理解が欠けている」と指摘する。

 象徴的なのは、ボランティア活動への対応である。阪神・淡路では3カ月で120万人近くが駆けつけたとされる。だが石川県は交通渋滞の懸念などを理由に受け入れを絞り、まだ約7万人にとどまる。一通りの仕組みはあっても、立ち上がろうとする被災者に寄り添う支え手が圧倒的に足りていない。

 今後、復旧復興が本格化する。支援制度の線引きからこぼれる人がいないよう関係機関が連携し、一人一人の困難さに応じて支える災害ケースマネジメントに取り組むべきだ。