新春を迎えた神戸・三宮で、私たちは吉田順さん(42)に会った。21年前に西宮の自宅で母の章江さんをみとり、今は広島で働いている。
章江さんが白血病と診断されたとき、父の利康さん(71)は順さんに病名を告げたと話していた。順さんがぽろぽろと涙をこぼしたとも。でも、当時のことを聞くと、順さんは困った顔をした。
「何も覚えてないんです。たぶん何も考えないようになってたと思うんです。そうじゃないと、生きていけなかった。あの頃の記憶については、『欠損』っていう言葉が一番近いっすね」。当時は大学生だった。
「おかんが死んでしまうのに、何もできない無力感とか、ふがいなさとか…」。順さんは腕を組みながら、言葉を探しているようだ。
章江さんは明るく、元気な人だった。その母がいなくなって、順さんは遊び歩いて家に帰らなくなる。「おやじがね、必死に僕と弟の気を引こうとするんです。ご飯、作ったりね。僕は僕で、反抗期がもう一回来たみたいな感じでした」
だが、海外で暮らしたり、就職で東京に住んだりするうちに、少しずつ母の死に向き合えるようになる。
「就職した後ですかね。おかんの人生、振り返りたいなあって思ったんです」。そして、祖母や伯母に昔の写真を見せてもらう。友達とおしゃれをして写る若い母がいる。勤め先の慰安旅行の写真もある。進路で悩んでいたことなど、初めて聞く話もあった。
「いろいろ聞いてると、母である前に一人の女性なんやなあって。時を重ねていろんな経験を積んで、結婚して、母になって…。そういうのを知ったのが、うれしかったですね」。順さんが笑う。
もうお母さんの死は整理できたのですか。
「完全には無理。でも年々、落ち着いていってますね。もしどっかでおかんが見てたら、喜ぶ方がいい。おかんが喜ぶことをする。それが僕の行動の軸になってます」
◇ ◇
順さんが大切にしている物を教えてくれる。ゾウの絵が付いたタオルケット。幼い頃、章江さんがおなかに掛けてくれた。
「就職で家を出るとき、押し入れから引っ張り出して持って行きました。もう何色やったんかも分からんけど、捨てられないっす」