■住まい再建 道遠く
「『わしらは地域に帰れるのか』と聞かれるが、答えられない」
神戸市の長田区役所の南東に、ひと際、更地が目立つ地域がある。九月二十三日夕、プレハブの建物に九人の住民が集まった。区画整理が計画される御蔵通・菅原通三、四丁目の復興対策協議会代表委員だった。
「どこに道をつけるか、市がはっきり言ってくれなければ考えようがない」
「土地のない人はどうしようもない。家賃の問題もある」
議論はなかなか前に進まない。「焼け出された人が帰ってくるようにしないと」。会長はつぶやくように締めくくった。
今回、下町として取り上げるのは御菅(みすが)地区だ。御蔵通と菅原通の頭文字をとって、その名がある。菅原市場や商店街がある地区といった方が通りがよいかもしれない。長屋やアパートが密集し、商店、町工場も多かった。
神戸市消防局によると、火の手は二カ所から上がった。北側からの火で御蔵通五丁目のほぼ全域、六丁目の北半分が焼けた。南からの火で、御蔵、菅原通三、四丁目全域、同二丁目の一部が焼けた。下町を火がなめ尽くした。
死者百四人。
焼失七百五十一棟。
地域で暮らす三千七百九十九人の三%が亡くなった。最も被害が大きい菅原通三丁目は二十八人が死亡し、住民の一割近くに上った。
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九カ月たった地区を歩いた。JR高架下周辺の建物を除くと、三、四丁目で火災を免れたのは、市営住宅、地域福祉センターなど十棟余りしかない。
更地にはプレハブが目立つ。菅原市場の共同仮設に二十二、商店街にぽつぽつ。コンテナの改造や、二階建てで少し頑丈そうなプレハブもある。数えると百三十余り。本建築は極端に少なく、五軒ほどしかない。
商店街北の長屋が集まっていた地域は、プレハブもあまりない。今も供養の花が置かれている。仮設も、店抜きに生計が成り立たない商店が中心で、住宅再建はほど遠い現状を物語っている。
都市住宅学会によると、西宮市から神戸市須磨区までの既成市街地にあった約四万五千戸の長屋の六四%が全半壊した。同様に約五千二百戸あった二階建てアパートの全半壊は五八%に及んだ。
神戸市長田区には、神戸市内の長屋の約四割、約一万四千戸があったが、全半壊が七二%に達している。古い長屋も木造アパートも家賃は安く、高齢の入居者が多かった。そんな住居が既成市街地から消えた。
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九月下旬、「長田の良さを生かした街づくり懇談会」が、区役所で開かれた。学者らを中心に、さまざまな角度から街づくりを話し合ってきた。
長田福祉事務所職員で、生活保護の面接などを担当している霜川卓之さんが、講師として話し、被災者が長田に帰りたいと考えている四つの理由を挙げた。
お年寄りが互いに支え合う地域のコミュニティーの存在。
長屋など低家賃住宅の多さ。
ケミカルシューズなど仕事場の条件。
在日韓国・朝鮮人、ベトナム人らの民族共同体。
霜川さんは「地域のコミュニティーは福祉施策の補完的な役割を果たしていた。内職をしていた人も多く、地域を離れることは仕事を失うことにもなりかねない」と説明した。
御菅地区の人口は、ピーク時の一九六〇年、八千三百人だったが、九〇年には三千八百七十六人と半分以下になり、減少が続く。六十五歳以上の高齢者は、御蔵通三丁目で二五%と、実に四人に一人である。
問題をかかえながらも、取材で会った多くの住民は、遠くの仮設住宅から長田の医者や、喫茶店、理髪店に通うなど、地元とのつながりを大切にしていた。つながりはまた、彼らの生きがいにも受け取れた。
「下駄(げた)履きが似合う街」と、彼らは話す。そこに「災害に強い街」を加え、再生するには何が必要か。「復興へ第6部・下町に帰りたい」は、その条件を探りたい。 (21面に関連記事)
1995/10/16