■長田・御菅地区から
空が白みかけたころ、神戸市長田区御蔵通四丁目の消防団員、大繁広志さん(48)は、向かいの家の屋根にのぼった。東方向に白煙が伸びるのが見えた。「風向きは逆。火はこっちに来んやろ」。まだ、そう思っていたという。
揺れとともに、木造二階建ての一階天井が落ちた。八十三歳の母親が階下のベッドにいた。畳をめくり、床をはいだ。タンスと仏壇がベッドと崩れた天井の間にすき間をつくり、暗やみで母親の無事を確認した。
裸足にズック靴をはき、近所を回る。声をかけると、壊れた家に、そのままいる家族もいた。「はよ、避難せなあかんぞ」と、声をふり絞った。
そうするうち、さっきの方向から、黒々とした煙が、噴き上げてきた。風は西向きに変わり、こぶし大の火の粉が飛んできた。「こりゃ、あかんと思ったけど、みんな、小学校へ逃げるので精いっぱいやった」
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御菅地区では地震直後、少なくとも二件の火災が発生し、延べ四万五千七百平方メートルを焼いた。甲子園球場を上回る面積になる。
神戸市消防局の記録では、長田のほか、垂水、水上消防署が出動。新湊川や御蔵小学校プールの水を利用した。が、プールは活用まで時間がかかった。継ぎ足したホースは、通行の車に踏まれ何本も破れた。
木造家屋は火の回りも速かった。長田消防署は「とにかく水がなかった。消防力の限界をはるかに超えていた」と話す。
消防団もあった。神戸市長田区の八分団は十七日、三百九十一人を救助した。南部の東尻池では、企業の自衛消防団も協力、住民のバケツリレーで延焼を食い止めた。御菅地区では、大繁さんが安否確認に回り、神戸大工学部地域安全計画研究室の聞き取り調査で、住民が「井戸水をかけた」「ホース運搬の手助けをした」などの活動をしたこともわかっている。
だが、既成市街地の消防団は手薄だった。市内百六十分団のうち、九十七は区域が広く、消防車到着に時間がかかる西区と北区。分団が持つ小型動力ポンプ百七十三台のうち、百六十四台までが両区にあった。
「もともと市街地での消防団員は、交通整理や安否確認、啓発など支援が主な役割だった」と市消防局は言う。
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御菅地区の消防団員で、震災時、出張中だった林八次朗さん(49)は「昔は公民館にポンプ車があった」と振り返って話す。
「町中では、消防団に参加する人も少なくなるかもしれん。ポンプがあっても、自主防災組織をきちんとつくらないと、いざという時に動かせない」
神戸市は、新たな自主防災組織・防災福祉コミュニティー構想を打ち出している。それぞれに地域で活動する福祉・保健関係者と防災関係者。日ごろの情報交換を密にし、災害時に力が十分発揮できる仕組みができないか、と考えている。
神戸大の大西一嘉助手は「住民の活動が大切」と認めながら、同時にハード面でのまちづくりも忘れてはならないと指摘した。
「住民にできるのはバケツリレーまで。それ以上はプロでないと消せない。街を安全な構造にしておかないと太刀打ちできない。人に例えれば、大人になってからビタミン剤を飲んでも遅い。子どもの時から、骨格や筋肉をきちんとつくっておくのが基本だ」
1995/11/2