その長屋は神戸市長田区御蔵通三丁目にあった。
震災直後、街を襲った火は、木造の長屋から長屋へ燃え移り、一帯を焼き尽くした。土地は雑草が茂り、わずかに残る基礎部分が家屋の跡をとどめる。一角で自転車屋を営む和田良さん(51)が、トタン張り店舗で仕事を続けていた。
五軒棟続きの二階建て。和田さん一家のほか、次の人たちが借りていた。
谷口祥子さん(57)
淡田栄恵さん(70)
中文子さん(79)
吉田正雄さん(69)
六畳二間と三畳、玄関の板間に台所。家賃一万八千円で、和田さんなど二軒は商店、工場を兼ね、二万五千円と少し高かった。土地の広さは一軒当たり十三坪(四二・九平方メートル)。建築は大正十年、築七十四年である。
3Kプラスαで家賃一万八千円の長屋の暮らし。取材は、五世帯のその後を追うことから始めた。
◆
須磨区北部のニュータウン。一戸建てに囲まれた公園に三十六戸の仮設住宅があった。谷口さんは六畳一間に暮らしていた。
あの日、隣で寝ていた夫の幸広さん(63)は天井のはりの下敷きになった。何回、揺すっても目を開けない。午前六時にセットした目覚まし時計がいつまでも鳴り響いた。「谷口さん、谷口さん。そこまで火が回ってる」。近所の人に救出されたが、幸広さんを残したまま、長屋は南から迫った火に包まれた。
谷口さんは話した。「地域の区画整理が終わるのは何年先だろう。長屋は道路になるみたい。ふるさとがなくなるのは辛(つら)い」
淡田さんは、三木市の長女宅に身を寄せていた。仮設は当たらなかった。「御蔵に安い家賃でしっかりした住宅ができたらいいが、もう神戸には帰れないのでは」。十二年前に夫を亡くした。今も月に二回は御蔵通の医者に通い、市場で買い物をする。
中さんも一人暮らしだった。年下の谷口さんは「ねえさん、ねえさん」と呼び、一緒に銭湯に通った。「何かあったら頼むで。みんな、助けてな」といつも話していた。震災後、近所の人たちが繰り返し呼んでも、中さんの返事はなかった。
長屋を鉄工所に使っていた吉田さんは、神戸市西区の工場の一角を仕事場に借り、和田さんは、倉庫のあった近くに、店舗つき住宅の再建を決めたという。
◆
昭和三十年ごろ移ってきた吉田さんを除く四世帯は、親の代から、戦前からの住民だった。古く狭い住居だったが、留守番をし合い、夕食のおかずを分け合った。路地に囲まれた街に小さな幸せがあった。
震災で二人が亡くなり、家は消えた。「元の場所で暮らしたい」と口をそろえる。しかし、めどはない。十月に入って、東灘区に住む家主の女性から、和田さんに届いた手紙には「土地を市に売ろうかと考え、相談している」とあった。
谷口さんは、貯金をはたいて北区の公団住宅を購入、年明けに移る決意をした。淡田さんは、長女の同居の勧めを受けようかと考えている。
戻りたくても遅々とした下町の再建。神戸市は、御菅地区のブロック別勉強会でこう繰り返してきた。
「早く帰りたいという声は数多く聞き、厳粛に受け止めている。そのためには一日も早く、街づくり計画をまとめる必要がある」
今、その計画づくりはどのように進んでいるのだろうか。
1995/10/17